踊れ。ステップが判らなければ隣をなぞれ。何の踊りかなんて、考えるな。

10月 11th, 2007 by admin

http://semiprivate.cool.ne.jp/blog/archives/000711.html

 大変考えさせられた。
 僕が主に考えさせられたのは、
【2・中毒患者】の節である。
 ここで書いてある事はことごとく合っている。消費者が欲しがっているのは、面白さではない。これは真理だ。何故か? それは面白さは苦痛を伴うからである。書くまでも無く、面白いとは苦痛の果てにある物なのだ。

「頭文字Dとかあファンだけど、文字が多いじゃない?だからマンガでは読まないの」

 これこそが象徴している。本来、面白さを求め、逃避の為に使用するマンガ、10分で読めるマンガでさえも苦痛へと変わる。右から左へ何の問題も無く抜け、直感だけで判断し、それを摂取する。その過程、その道程がおっそろしく簡単なマンガでさえも、文字数が多い事だけで敬遠されてしまう。これが消費者の自由な声。消費者の本来の声である。
 消費者は勝手だ。勝手な事をのべつ幕なしに言う。しかし、それが消費者の権利である。
 じゃあ、それに対処するのに、一体作る側はどうすればいいのか。
 閾値をどれだけ下げても、マンガという極端に閾値の少ないメディアでさえも忌避する相手に、どうやって買わせるのか。
 簡単な事だ。知らせろ。読まずに内容を判らせれば良い。読む前に中身を理解できていれば、読む必要はない。文字が多い? 読みづらい? ナンセンス! 中身が読む前から判ってりゃあ、そんなのはどうという事も無い。読んで貰う事が目的? ナンセンス! 買わせる事が究極的な目的である。少なくとも資本主義においては。
 だから、口コミは売れるのだ。何故って、勝手な人が勝手な判断と勝手な切り口で、でたらめを言って回ってくれるからだ。中身がどうあれ、糊塗し、価値を決めつけ、意図もしないあり方を想像し、タダでブログで書き散らす。
 ネタバレを嫌うなかれ! ネタバレを嫌う権利を有するのは買った人間のみだ。それ以外は豚以下だ。ネタバレを知っていても、豚以下だ。なに? ネタバレを知らないように中身を知りたいだと? 買えばいいじゃねえか。それだけだ。
 つまり、作品にとって重要なのは、知られる事だ。それに尽きる。逆に知られない作品は売れない。話題にあがらない作品は売れない。興味を引かない作品は売れない。選択肢も無く、誰にも知られずただ消えるだけだ。
 作者が「なんかいいよね」を禁止して、何が面白いかを取捨選択した程度では、焼け石に水。売れない。
 何故って消費者という仮想敵は強大だからだ。読まずにつまらないと決めつけ、ちょっと読んでも「読みたくない」とつまらない事にし、たとえ読み切っても「意味がわからなかった」とつまらかった事に出来る。何でも有りのバーリトゥードでも斯くやとばかりのインチキぶりだ。だが、作者に消費者を選ぶ権利など無い。小指の先ほどにも無い。だって消費者は金出すんだぜ。どうやって手に入れたか判らないが、金出すんだぜ。心血灌いで得た清い金か、博奕で稼いだ泡銭かは判らないが、金を気前よく出すんだぜ。
 読む前の作品の出来なんざ、さっぱり判らないんだぜ! たとえ他人から聞いていても、その他人がどれだけ信用できたとて、確率論の問題だ、判ったもんじゃない。でも博奕と思って金出す訳だ。
 で、そのときの理由を考えてください。僕等はオタクだよね、だから監督で見たり、作者で見たりする。しかし、大多数がそうか? 違うよね。そう、隣を見て踊るんだよ。隣の踊りのステップを見るんだよ。
 携帯かもしれない。メールかも。SNSかも。ブログかも。新聞かも。雑誌かも。テレビかも。自分が信じたメディアを信用し、自分に近いとメディアを理解し、踊るんだよ。
 何の踊りかなんて考えるかね? ねえ、お金さえ払えば良い踊りに、どんな踊りかなんて意味が、果して重要かね?
 重要じゃない。ちいっとも重要じゃない。「なんかいいよね」で良いんだよ! それを禁止すべきなのはほんの一握りの矜持を心の礎において、たった一人で群衆相手に愚行を犯そうと考える人間だけでいい。
 踊るしか能のない人間がそんな物で格好付けようなんざ、ナンセンスどころか滑稽だ。隣にステップをきちんと見ろよ。自分の頭の上のハエを追えよ。
 さあ踊ろうぜ、死ぬまで続くこの醜い踊りをよ。
 踊る以外に何か見せ物が出来るなら別だが、如何せん、踊る以外に何か出来る奴なんて少なくとも、こんな日記を読んじゃ居ないだろうぜ。出来るなら、心のままに従えばいい。

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スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ

10月 8th, 2007 by admin

 あのねー。

 僕ももう随分長い事、作品見たら文書で感想だの考察だのを知ったかして書いてるんで、読んだり見たりしている最中に大体頭の中で何書くか考えるんですよ。

 まあフツーそうだよね。

 ところがこの作品は、一切書くべき事が見つからなかった。一切。

 ざっと書く事は書けますよそりゃ。

 伊勢谷友介がもんの凄くかっこいいんです。もう衣装と相まってやばいくらいかっこいい。冒頭の源氏と平家が相対す場面とかの格好良さは、尋常じゃないです。あの1シーンだけはガチで異常にかっこいい。絵になるなあ、と思います。彼を見るだけでも十分かもしれない。

 それだけです。

 というのも、作品構造は完璧に用心棒なんですが、僕用心棒がものっすごい好きなんですよ。(ごめんね、僕黒沢作品の批評とか全然知らないから怒ら
ないでね)理由としては、無駄が全然無いからです。僅か数件の家のセットだけで、完璧に世界観から何から全部描ききっている。それでいて面白い。

 謂わば、閉鎖劇? って言うんでしたっけ。舞台が全然動かない中で話を動かす手法。それを貫徹している訳です。でも無理にやってない。必然性の中で動かしている訳です。

 おまけに、三船の存在感たるや凄まじいもので、ばばんとスクリーンに出た瞬間に、二つの陣営が相対し、他の俳優がほぼ全員揃い踏みだと言うのに、存在感だけで圧倒する訳ですよ。

 こいつはただ者じゃねえ……! と居るだけで思う訳です。だから傍若無人に自分の値踏みを始めても、全然違和感が無い。

「この男は強いんですよ!」って描写をわざわざ入れる必要性が無いんですよ。だって見るからに強いから。

ところがねえ、このジャンゴではねえ、わざわざ強さを現す描写が出てくるんですよ。残念ながら。だって伊藤英明頼りないもん。

 で。比較しろと言わんばかりの構成なので伊藤と三船を比較しちゃう訳ですが、どうにも伊藤が頼りない。 ずーっと全編、どれだけキャラクタとして強くてかっこいいかを描写されても、何せ三船の影を追っているので、もう全然からっきし。ダメダメ。

 相手が悪いよ! って言ったって、そういう構成にした時点でそりゃ比べるじゃないのよ! 大体看板役者がこれだけ頼りない時点でダメです。

 内野聖陽とか持ってくればさ、一瞬で引き締まると思うよきっと。

 つーかねー、そういう視点で言えば全然ダメな点がいっぱいあって、木村佳乃とのベッドシーンで上半身裸なんですけど、木村佳乃の引き締まった肢体に比べて、伊藤のだらしなーい上半身を見るとね、もうどうにもがっかりしかしない訳です。

 何もハリウッドばりとまでは言わないけれど、もうちょっと何とかしようよ、ねえ。

 その点木村佳乃は素晴らしい。非常に演技力があると思います。

 すっごい難しい役で、ダンスとかを扇情的に踊るシーンがあるんですけど、まあ許せるレベルで肉体全部を使って、感情を込めて踊ってるんですよね。

 まあ専門家じゃないけれど、僕はアリだと思った。

 ドキッとしちゃう美人だしね。

 しかし、何よりがっかりなのは桃井かおり。

 僕ね、桃井さん凄い好きなんですよ。何が好きかってあの存在感ですよ。存在感。

 樹木希林も凄い存在感があると思うんですけど、桃井さんも負けじとおっそろしく存在感のある女優さんだと思ってるんですよ。

 で、存在感のある役なんです。実際。かっこいい。最高の役。

 でもねえ、悲しいかな前半のシーンと後半のシーン、どちらに桃井さんの存在感があるかというと、前半のシーンなんです。

 後半は凄く動く役にがらっと変わるんですけど、これもまたキャラクタと演じる俳優の間でとんでもなく乖離がある。要は動けてないんですよ。全然。致命的に。

 年齢の割に半端なくすっげええええええって役なのに、年相応からそこまで離れてない動きなんです。これはね、残念だけれどミスとしか言いようがない。

 ワイヤーアクションの一発でもかますくらいじゃないと、圧倒的な動きを表現できなかったんじゃないですかねえ。一人だけワイヤーアクション。一人だけマトリックスばり。まあ予算ですかね。

 何だかんだと書いては見たものの、これを見るくらいなら黒沢明の用心棒を見返した方が面白いと思えてしまう時点で、悲しいよね。練り込まれ方がやっぱり黒沢の方が遥かに上なので。見る度に発見があるんですよね。黒沢作品は。

 衣装は凄く良いと思いますよ。

 あと笑いがどうにも薄っぺらい。残念だけれどコメディリリーフなんて要らないと思いました。スラップスティックで笑いを表現するのは確かに素晴らしいと思うけれども、どうにも、ねえ。骨子が骨子だけに薄っぺらく感じてしまう。

 いやー、僕この作品好きなのに、どうしてこうも批判ばっかりなのかな。やっぱり僕が半端なく好きな用心棒をただなぞるだけって構成が気に入らんのだろうな。

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CLANNAD見た

10月 6th, 2007 by admin

 今乗りに乗っている京アニの最新作、CLANNADを見た。
 原作ゲームはやっちゃいないが。
 僕はどうにもkeyのゲームは合わなかった。というのも、キャラクタの造形が幼くて、だんだんイライラしてくるのと、作品テーマの方向性に疑問があったからである。
 というのも、基本的にはテーマとしては決まって、『奇跡』に頼る方向性で、奇跡は他力に頼った上で起きる物なので理由は必要ないとばっさり切っている。
 これは僕の勝手なエゴなのだが、奇跡とは起こるべくして起こる物だと思うのだ。
 それじゃあ奇跡じゃないじゃあないか、と言うかもしれないが、それなら富める者にさらに富を与える奇跡と、貧しき者に富を与える奇跡は等価であるはずだ。
 しかし、物語作品において前者のケースはまずあり得ない。カタルシスも無ければ教訓性も無いからだ。その時点で既に奇跡とは万人にとって等価ではない。既に何かを失った者、不公平な境遇に居る者だけが、奇跡を受ける権利を得ている。
 とは言え、その日暮らしを続け、酒に溺れた生活をしている人間が幾ら貧しかったとて、やはり物語作品においては奇跡は受けられない。
 結局、何かしらの努力、ないしはトリガーとなる行為をしなければ、奇跡は起きない。だから全ての奇跡は必然であるべきなのである。
 ところが、keyの作品はその決まり切った所作を省き、結果として奇跡が起きるだけである。別に何かしらの対価も、努力の証も、トリガーもある訳ではない。
 だから、本来起こりえない奇跡が何故か起こってしまっている。それに感動などどうして出来ようか。

 さて、本作だが、元の作品自体が18禁で無くなったのを受けてか、父親と母親が登場している。
 いわゆるエロゲーにおいて、親の存在は基本的に禁忌であり、特に父親に至っては娘と婚前交渉をするのが基本となる作品が多く、出すと話しが重くなるため基本的には出さない。
 母親は性的な対象になる場合があるため、出るのだが、基本的に主人公=プレイヤーを咎めない。
 という事は、この作品には父親と母親が出る必然性があるという事である。
 まあ家族愛とか言ってるし、きっと父親の過去があってどうのこうの、って構成なんじゃないのだろうか。
 キャラの造形も、相変わらず内気なリスカ少女が一人は居そうな構成となっていて、まあ順当じゃなかろうか。しかし、灰色の髪の女の子が格闘少女だったとは……。薄幸そうに窓辺で読書をして、サナトリウムが良く似合うタイプの女の子かと勝手に思っていた。いわゆる文系少女。キャラ造形からの類推は一切当てにならんなー。
 しかしギャグシーンは寒いなー。おそらく、字面だけだと面白いのだが、台詞にすると恐ろしくテンポが悪い。ベテランの声優が演じてあそこまで寒いってのは、ホンが悪いんだろうな。
 今まではKanonもAIRも原作をやって、力一杯否定してたので、今回は原作を知らない分まともに見れるのやもしれんなあ。まあ予想では安定はしない構成だろうな。だいたい、何人も女の子が居て攻略していくゲームを一本道にする構成は無理がある。

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河童のクゥと夏休み

8月 5th, 2007 by admin

1.人とは善なるものなりや

 人とは、善なるものだろうか。

 僕は、曾ては性善説を唱えていた。人は生まれながらにして善意に満ちているので、基本的には人間を信じるべきだ、という考え方である。しかしながら、齢を重ねる毎に、それは疑念に変わった。人の本性、それは即ち、悪しものではないか、と。

 他者に害を為し、傍若無人に利己を通すことは、如何なる考えによって成されるかと言えば、それは詰まる処、『想像力の欠如』によって成される。

 一体何を言っているかというと、他者の痛みを想像できない人間は、他者に対して幾らでも残酷に振る舞う事が可能である。人は想像し得ない他者、理解できない他者に対しては、限りなく残酷な振る舞いをしても、全く痛みを感じないのである。

 故に、冒頭の侍は河童を斬れた。

 そして、『想像力の欠如』の悲劇は、斬られた河童側にもあった。よもや害なす訳でなしに、斬られる訳がないという憶測が、その身の破滅を招いた。では、どちらに非があったかと客観視すれば、それは明らかである。

 故に、人はシャッターを、携帯電話のカメラのスイッチを押す事が出来た。

 好奇心が、想像力で考えられる対象への配慮を上回り、結果としてどうなるか、対象がどう考えるかは想像せず、脇に追いやった結果、対象に害を為した。

 故に、人は、犬を車で轢き、そのまま立ち去る事が出来た。

 故に、マジョリティである事のみを盾に、いじめる事が出来た。

 想像力を欠いた人は、悪しものなのである。

2.異なるもの

 クゥは『異なるもの』として描かれている。つまり自然の状態、通常状態では有り得ないものだ。

 そのクゥが、通常状態では通常の、普通の人間の男の子、コウイチと出会う事でドラマは始まる。

 しかし、300年の長きに渡り土の中に眠っていたクゥは、既に『異なるもの』の中でさえ、『異なるもの』だった。

 あらゆる母集団からもはぐれた『異なるもの』。結局、コウイチの一家は、この『異なるもの』になるかどうかの決断を迫られ続ける事になる。

 そして、実際にはその決断を迫られ続けるのは、コウイチではなく、コウイチの父親である。

 冒頭、クゥを最初に河童として認識したのは、父親である。コウイチも、母親も妹も皆、『捨ててもいいもの』『ありふれているが奇異なもの』『不
思議なもの』としか認識をしていない。つまり、簡単に所有が許されると考えている。対象、クゥに自我らしき自我もなく、か弱い生物なので所有し、勝手な主
従関係に置いても問題ない。何故なら意思の疎通が出来無いのだから、常に主導権は人間側にあると考えているのだ。

 しかし、「殺さねぇでくだせえ」とクゥが一言口走ったところで、その認識はズレを起こす。主導権が対象のクゥにもあった事が認識される。

「コウイチ、水をかけてやれ」「虫じゃないんだ、もっと精の付くものを食べさせてやれ」

 そう判断し、行動を指示したのはコウイチではない。コウイチの父親なのである。

 口が聞けた事により、クゥへの待遇は一気に改善される。水槽の中という、『飼う』象徴の場所から、コウイチの部屋へと移され、食事も母親自身が持ってくる、同居人の扱いへと変貌する。

「世話してるの結局あたしじゃないの。あーあ、食事代もバカにならないし。あんたの話じゃないわよ」

 母親はスーパーに買い物に行き、犬に「あんたの食事代を異常と感じている訳ではない」と会話する。

 これはつまり、飼って所有していると認識している犬と、同居、居候のクゥとの明らかな差である。主観が無い対象に対しては、人は責任を持たなければならないと感じているのだ。しかし、主観があればそれは責任の範疇ではない。

 そしてこれは通常状態にある犬と、『異なるもの』であるクゥとの差でもある。

 しかし、コウイチ一家の認識とは裏腹に、犬、おっさんも即ち『異なるもの』の一員であった。

 おっさんは、『異なるもの』でありながら、『通常状態』であるため、その両者の橋渡しに尽力する。

 クゥは元より、他の『異なるもの』にもおっさんは橋渡しをしようとしている。

 元の飼い主が始まりである。元の飼い主は、おっさんを所有し、愛玩していたが、自身が『異なるもの』と見られたか、もしくはいじめられた結果
『異なるもの』へと変貌したのか、いじめられ、おっさんにそのフラストレーションの矛先を向ける。しかし、『異なるもの』との橋渡し役である以上、おっさ
んは暫く耐え続け、しかし最終的には耐えきれずに逃げる。

「コウイチは小さいときのアイツに良く似ていた」

 そして、『異なるもの』になりつつあったコウイチの元へと転がり込む。

 そしてもう一人が、キクチである。

 キクチという女の子は両親が離婚し、家庭環境が最悪であったのが原因か、それとも宮沢賢治が好きだという夢見がちな所が気に障ったのか、『異なるもの』と認識される。

「あいつうざいよねー」「いなくなっちゃえばいいのに」

 そう言われ続け、謂れのない差別を受ける。マジョリティである事のみを盾に、いじめを子供は行う。

 そのキクチと、コウイチとの仲を取りなそうとおっさんは動いたりもする。常に『異なるもの』と橋渡しをしようとするキーパーソンがおっさんなのである。

 話を戻そう。『異なるもの』のクゥは、遠野へ行きたいとパンフレットを見て言い出す。ここには自然があり、『異なるもの』が居る筈だと。

 一家で行こうという母親に対し、父親は言う。

「いやー、この夏休みは仕事が微妙でな」

 『異なるもの』と同居する事は許しても、仕事という通常状態を優先させている以上、通常状態にあり続けようと父親は判断し、結果コウイチを一人で行かせる。

 『異なるもの』になるつもりは一切無いのである。

 これが一度目の『異なるもの』へ転ずるか否かの判断であり、この時ははっきり『否』と下している。

 果たして、遠野に『異なるもの』は居た。しかし、河童は居なかった。

「コウイチ、帰ぇろう」

 座敷童に「ここ100年は見ていない」と告げられ、しょげかえり、帰ろうと言うクゥにコウイチは、まだ判らないという。しかしクゥは返す。

「おれたちは嘘は付かねぇ。嘘を付くのは人間だけだ」

 『異なるもの』を保護し、共に歩めるのは結局、『異なるもの』だけと言うわけだ。

 しかし、ここでコウイチ一家は二度目の『異なるもの』へと転ずるか否かという問いかけを受ける事になる。

 写真週刊誌に写真を撮られ、一家の元に取材陣が押し寄せる。その前の時点で、インターネットには既に情報が流出しており、妹の幼稚園でも流布し始めている。

 一家は既に『奇異なもの』として見られ始めていた。

 そして、この週刊誌事件以降は、はっきりと集団からは『異なるもの』として見られている。

 学校でコウイチは『異なるもの』として扱われ、疎外される。

 そして奇妙な事に、コウイチ一家は自身達を、おっさんと同格の『異なるもの』と『通常状態』の橋渡し役だと考えている。とっくに集団からは『異なるもの』として見られていると言うのに、自覚がない。

 会社からはお得意様の取引先だからという事で、コウイチの父親は無理矢理クゥを表に出す事を承諾され、次第に事態はエスカレートし、悪化の一途を辿る。

 クゥは承諾する。これは別にコウイチの一家を特別扱いしている訳でも、橋渡しだと認識している訳でもない。

 クゥにとっては、コウイチ一家が『異なるもの』人間である事に変わりはないからだ。コウイチ一家も、侍も、カメラを構えた人間も、クゥにとっては同格なのである。

 ただ、恩義に報いる、ただそれだけである。

 そして、テレビ出演を果たし、トラブルが起こる。

 しかし、そのトラブルを解決できたのは、橋渡し役であるおっさんだけだった。

「なにやってやがる! 早くアイツを助けてやれ!」

 おっさんは、コウイチ一家にそう言うが、コウイチ一家の動きは遅い。

「あの家のモンは、そんなに悪い奴等じゃねえぜ」「おれはこの家のモンに恩義があるんだ」そう言って慕っている筈のコウイチ一家は、すぐには動かないのである。

 何故なら橋渡し役でも、『異なるもの』でもなく、自分たちは通常状態の人間だと認識しているからである。

 そして、奔放するおっさんに対し、人は牙を剥く。想像力の欠如という甚大なる悪し行為を行う。コウイチ一家も動くが、遅い。

 結果、おっさんは人によって悪し行為の犠牲となり、クゥは唯一の接点を失う。

 父親の死の決定的な証拠、そしておっさんの死。二つの死を突き付けられ、絶望するクゥに手を差し伸べるのは、やはりコウイチ一家ではなく、『異なるもの』龍神だった。

 死を諦めるクゥ。

 そして、東京タワーの一角に佇むクゥに対し、手を差し伸べるのがコウイチ一家ではなく、消防隊というのも象徴的で、コウイチ一家はここで決定的にクゥと間接的な触れ合いしか出来ていない事を突き付けられる。

「おっさんは俺たちに出来無い事をやったんだ……」

 コウイチの父親はそう言う。橋渡し役の退場は、自分たちが橋渡し役であると自負するコウイチ一家にとって、立場の再認識であり、そして認識の間違いを認める事にもなった。

 そして、クゥと川へ一緒に行く事を提案するコウイチ一家。

 現状をあるがまま受け入れる事が重要だと突然、『異なるもの』へと転ずる事を決意する。

「きっとその内慣れて、クゥちゃんももっと住みよくなるわ」

 『異なるもの』と扱われるキクチもそう言う。

 『異なるもの』の直感、『異なるもの』が通常へと少しずつ転じていくという考えである。

 この時点で、決定的に省かれているコウイチは、『異なるもの』を助けるのは『異なるもの』という原則に従って、キクチと傷を嘗め合う。

 しかし、子供達は『通常状態』にあるというマジョリティを盾に、囃す。

「うちの父ちゃんが言ってた。河童なんてのはエイリアン、みたいなモンだからどんな病原菌を持ってるか判ったもんじゃないって」

「カッパ菌!」

 そう囃す子供を追い払おうと声を荒げるキクチに、子供はどつく事で応対する。倒れるキクチ。

 許せないと掴みかかるコウイチ。

 その状況を覆すのも、結局クゥの相撲であり、『異なるもの』を助けるのは『異なるもの』という原則は生きているのが判る。

 しかし、此処で転機が訪れる。

 『異なるもの』同士として仲良くしていた筈のキクチが、転校すると言い出すのだ。そればかりか、クゥの元へも『異なるもの』から手紙が届き、その元へと明日には発つ、そうコウイチ一家に告げる。

 コウイチ一家は、『異なるもの』から拒否されるかのように、『通常状態』へと立ち戻る事を要求される。

「コウイチ、遠野の川でクゥがどんなに生き生きとしていたか教えてくれたろう。たまには川に行けるかもしれないが、それは常に行けるわけじゃないんだ」

 そうコウイチの父親は告げ、囮役を買って出る。報道陣を追い払い、禊ぎを果たすためだ。

「私達、間違ってないわよね」

「今までが、おかしかったんだ」

 そう言って、コウイチ一家は『異なるもの』では無くなっていく。

 コウイチは、クゥを段ボールに入れ、キクチの家に持っていく。

「私、クゥちゃんみたく新しい所で頑張ってみる」

 そう言い、『異なるもの』と扱われるのではなく、通常状態へと転ずる切掛けを作ろうとするキクチ。

「おれを拾ったのが、お前達で本当に良かった」

 そうクゥは言うが、それは本心だったのだろうか。非常に疑問である。

 そして、段ボールごしにコウイチは、クゥと別れる事になる。最後まで、彼らの触れ合いは間接的だった。

 クゥは沖縄へ行き、神様に受け入れられ、『異なるもの』に助けられ、ここで暫く暮らすことにする。

 自然に戻るのである。

3.居心地の悪さ

 何とも言えず、居心地が悪い作品である。

 作品構造的にはのび太の恐竜に極めて似ているので、対比して考えると何故居心地が悪いかが判るのだが、結局コウイチの父親が節目節目で決断を下
してしまっている。これが恐らく居心地の悪さの原因で、結局その決断にストーリーが左右されており、コウイチの決断はストーリーに影響を及ぼさない。

 段ボールごし、リュックサックごしの関係も、結局真の理解者がおっさんだという事実も、『異なるもの』は元の住み処を追われるという着地点も、非常に居心地が悪い。

 決断を下すのは、物もわからぬ子供でなければならない。想像力が欠如していようが、何も判っていなかろうが、どれだけ後悔しようが、自分の手で決断を下さなければならない。自分の手を汚し、痛みを覚え、二度とその痛みを起こさないよう尽力しなければならない。

 しかし、決断したのはコウイチの父親であり、クゥなのである。

「おれはいつか死ぬ。父ちゃんや母ちゃんに会ったその時、おれは河童の生き方を忘れていちゃ申し訳が立たねぇ」

 自分からクゥはその身を引く。コウイチは「何故止めないんだ」と父親に文句を言う。クゥを自ら引き留める訳ではないのだ。そして何だか曖昧なままに、うめぇうめぇと言い合い、写真を撮り、送り出す。

 確かに、見事な演出だし、リアルである。だが、それ故に一歩も二歩も踏み出せない臆病な主人公、パンツすら脱がない主人公、心丸出しでぶつかり合えない主人公、何となく喧嘩で勝ってしまえる主人公に、軽く絶望してしまうのも事実である。

 心に、お話に、薄皮が一枚張ってしまっている。それが残念でならない。しかし、それこそが今のリアルなのかもしれないと思うと、とてつもなく愕然とするのだ。

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釘宮ツンデレ

7月 25th, 2007 by admin

釘宮がツンデレっつーので、色々見てみる。

成程これがツンデレか。

というか萌えは苦手ジャンルな訳ですが、何が苦手ってさー、萌え美少女は存在し得ないからですよ。

まあ凄い簡単に言えば、横の繋がりがズボッと抜けてるからですけど。

いや、ハルヒとみくるの間には人間関係があるじゃん、みたいな話ではなくてね、じゃあみくるが公衆の面前でステレオタイプな萌えポーズを取るかっつったら、取らん訳ですよ。

だって通じないから。

ステレオタイプなポーズってのは、受ける側と投げる側双方の間に、相通ずる部分が無いと通じない訳ですよね。

だから萌えと呼ばれる共通幻想は、幻想の世界以外では存在しないし、一般社会で通用しちゃならんのですよ。

それはオタク社会でだけ通じる暗号の様な物であるべきなので。

で、暗号を読み取って、「ああ萌え」っていうのが萌えって構造なので、それってマジで萌えてんのか? というのが僕の当初からの疑問。

いやでもこれは別に萌えに限った話では無いですけど。

例えば、よく言われるのが困った時に頭を掻くしぐさ。

あれって使います? 使いませんよね。

いわゆる○○ネタという系統にされる、アクみたいな物ってのは悉く全部暗号で、暗号だから意味がなされるんですよね。

で、漸く話を戻すと、釘宮ってツンデレか? って話ですよ。

「う、うるさいわねっ! 別にあんたのためじゃないんだからっ」

って言えば誰しもツンデレかと言えば、そうではないようで、ツンデレのイデアこそ釘宮、となった理由が全然判らん。

僕の記憶が確かならば、ツンデレって言われ始めたのって君のぞくらいからじゃなかったですっけ?

いや一切調べてないんで判らんですが。

前に買ってきたツンデレ大全とか言う本には、結局最後まで「ツン」で終わってしまった二人目の綾波と、アスカがツンデレの元祖って書かれ方がされてました。

要はそこで貯まったフラストレーションが、「デレ」という同人的、二次創作的要素として噴出して、ワンセットになったみたいな書かれ方だったような。

で、もしそれが事実なら、本家本元の林原や、宮村がツンデレのイデアであるべきですよね。

しかしながらそうはなっていない。

ちなみに釘宮の芸歴を見ても、ごくごく近年にルイズとシャナ、三千院ナギと立て続けに類型キャラを演じているだけに過ぎず、ターニングポイントとして明確に「これ」というのが無いように思えます。

いやそもそも言葉の成り立ちから曖昧な言葉ですんで、どうしても僕はツンデレ=釘宮が全然結びつかない訳ですが、まあ無理矢理考察すると、以下の様な理由かなあとは思います。

①ツンデレが行き渡ったから

ツンデレが「あああるある」ってなったのは、何もこれまで居ないツンデレキャラがどーんと出てきたんで、それに倣った、という訳ではないと感じます。

前どっかで書いた気がしますが、エヴァのレイとアスカの祖先を辿ると、セーラームーンに行き着くんですよね。

セーラームーンは、もう凄く良くロジックとして上手く出来ていて、転生もの、超能力もの、美少女もの、恋愛もの、戦闘もの、魔法少女ものの要素を詰め込んで、上手く舞台を回す方法がきちんと構築されてますよね。

どこがじゃって言うと、五人の少女のエピソードを回して、他の四人はサブに回る訳ですよ。

主人公のエピソードに、サブとしてキャラが動く、というんじゃなく、少女ごとにエピソードを持たせて、主人公をサブに回すという手法は、多分この辺りが最初じゃないですかねえ。

まあもっと前だと聖闘士星矢や、サムライトルーパー、天空戦記シュラトくらいで、「サブキャラを主役並に活用する」手法が確立されたんで、それを流用、なのかな。

いや、そもそも石の森のゴレンジャー系列にまで話はさかのぼれそうですけど、アレもキャラ毎にエピソードを回すという手法は取っていたのかな。

ちょっと調べが甘いんですが、その辺からの発展で、サブキャラにきちんとした背景を持たせる手法が確立された訳ですよ。

で、力関係が五人とも大体一緒なので、視聴者は好きな美少女戦士を主張できる訳ですよ。違和感なく。

先に挙げた聖闘士星矢系統だと、やっぱり聖矢や一輝が強くて、後はちょっと退きますよね。いや怒られそうだなこの辺。

でもうさぎちゃんははっきり言って主人公オーラが無いので、主人公的なスーパー変身が無い無印、R辺りだとぶっちゃけ空気並じゃないですか。

で、力関係が一緒、主人公の自己主張が強くないという状況で、キャラ差異って何って話になると、それは「キャラクター」「性格」が強い決め手になりますよね。

逆に背景すら一緒のレベルなので、そこしか決め手が無いんですよ。

で、ここで凄くキャラ差異にえらく注視されて、やれレイちゃんがどうの、やれ亜美ちゃんがどうのと言われた訳ですよ。

で、セーラームーンに強く関った幾原さんを呼び入れる、という公算も入りつつで、エヴァは作られた訳ですよ。

でもエヴァにおけるレイとアスカが、同一ライン上からよーいドンでシンジくんとラブラブになろうという話には一切なってませんけどね。

でもまあ、エヴァを受けてか、セーラームーンを受けてか、はたまたゲーム的に仕方無くだったのかは定かじゃないですけど、全員が同一ライン上から
よーいドンで目的に向けて走る、ときメモが出ますよね。いや、同級生の方が先なんですけど、どちらにせよこれらのゲームは、市場的にまだまだ受け入れられ
ていない中で発売されたゲームだった筈です。

相手は一般の女の子という辺りが物凄い病んでると思いますが、(別にドラマの必然性云々を言う訳じゃないですよ。まあ欲望に忠実である事は確かですが)一般である以上、ますますキャラの差異、背景じゃなく、性格面の差異のみが重要視される作品が出てきた訳です。

他にもこの辺で大体のラインは確立してて、

・主人公は目が隠れている、ないしは無い

・よーいドンでスタートするので、後発でキャラが登場せず、最初の段階で出揃う(のが一般的)

・髪の色が珍奇

・舞台は学校

・最終目標は一人と恋愛状態に陥ること

てのが確立されたんじゃないかなと思います。

大枠、それ以降を見ると大きく外れる事は無いと思います。

で、この大枠に従って、類型類型また類型と、こぞって類型を出しまくる訳ですが、その際に強気ないしは、主人公に興味ねえよという状況からのスタートのキャラが居た、ただそれだけだったと思うんですよ。

だって着地は恋愛状態でしょ。

この辺りのマイナススタートってのは、美女と野獣だのシンデレラだの、ロミオとジュリエットだの、もう腐るほどあるわけですよ。別に何一つ珍しい題材じゃないです。生まれて当然で、それがクローズアップされる事自体がおかしいっちゃおかしいんですが。

で、その共通観念が行き渡ったのがまず第一点かな、と。

②幼児性

僕はkey系のゲームが大嫌いでして。っていうのも狂ってるからですよ。

めくらやら言語障害やら、精神退行やらを抱えた少女以外攻略対象が居なかったり、そもそも全員幼児だったり。

まあ何より逆鱗に触れたのは、女の子が可哀想で「泣きゲー」じゃなく、「女の子を助けられないという境遇に置かれる自分が可哀想」で「泣きゲー」な構造ですよね。

女の子が可哀想だから、どうにかしようっていう方向性じゃなく、どうしようもないよ僕無力だもん! って所に酔いたいみたいな。

まあその後今はどういう方向になっているかというと、「幼児みたいに未熟な精神構造と、未熟な体型をした子に護られたい」に変わってきているので、より一層救いようが無いわけですが、それはさておき。

釘宮が演じているルイズやら、シャナ、三千院ナギ、水瀬伊織辺りは、全員未熟な精神構造と、未熟な体型をしています。

で、まあ受け手の男性に対して、本来ならば未熟である以上無礼な態度を取るのは、不届き千万ですよね。

但し例外が幾つかあって、一つには男性自体に幼児性があるので許容、もう一つはマゾヒズム的傾向からの許容です。

で、処女信仰、ロリータコンプレックスみたいな物は、その未熟性に神を見ようとする訳ですが、僕神とか見ようとするのはあまりにも危険だと認識してるんで、幼児性を凄い敵視してるんですよね。

ロボットアニメにおけるパイロットが子供なのは、高度経済成長期における子供が、「発展の象徴だった」からだとか言われますが、じゃあね、さっき挙げた幼児性、未熟性に神を見るのは、「発展」だからかって言うと違いますよね。

全ての男はマザコンであるって話がありますが、まさにその通りで、少女の処女性だとか、未熟性とかに母性を感じてるんですよ恐らく。

デレ状態って大体そうじゃないですかねえ。

少女の未成熟な太ももに膝枕する絵とか良くありますよね。

つーか大抵、デレ状態は「受け入れOK」みたいなノリですよね。

つまり乱暴で怒られそうですけど、「少女→母」になる過程を見て、自分の物にしたがってるんですよね、アレって。

それってまともか?

本来全然意図してない物を想像するってのは明らかに病的で、求めたって其処にあるわきゃないのに、求めるんですよね。

だって少女に母性なんざあるわきゃないんですよ。あってたまるかって話ですよ。

「か、感情のギャップだよ! ギャップが好きなんだ!」って言いますが、いやあだってデレ状態ってほぼ全部母性と言い切って良いですからねえ。異常な状態ですよ? 判ってます?

あ、で釘宮が何で受けたかって?

いや簡単な話で、彼女はこおろぎさとみとかかないみかの後継として見出されたからですよ。つまり少女性にツンデレが適合すると市場は判断したんですね。

③結論

故にツンデレは存在しない。

「ヤンデレとか素直クールとかは!」

とか言われてもしらねーよ。中原麻衣が何で受け入れられたか知らないので知りません。知りたくもないね。

いやはや。書いてみるとひどいな。

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で、時かけの話をすればよいのかしら

7月 22nd, 2007 by admin

とりあえず時かけをぼーっと見つつ、もうただひたすらに連休初日をぼーっとしておりました超もったいねえ。

時かけは見返すと、何が面白いのか判らなくなりますね。

つーのはね、口当たりの良いギャグの部分ってのは、こりゃもう絶対必要で、あの絵柄で笑わせるのは必要不可欠なんですけど、そこの部分って何でも
そうですが、初回のみ通用なんですよねえ。で、しつこさがないので、その辺はもう前提条件として見ちゃうじゃないですか。しつこい展開なら、ギャグ自体が
展開に組み込まれるように組むので、へんてこなセリフで胸が熱くなったりする訳ですけど。

でも時かけの構造的に、魔女おばさんが警告してくれた「あなたが得をする分、損をしている人が居るんじゃないかしら」「付き合っちゃえば良い
じゃない」辺りからは見ていて快くない部分なんですが、アレが来るよ、って警告がされてて、そっからの展開はそれを踏まえた物になっている訳で、つまり手
放しで口開けたまんま見れる部分と、作品主軸の部分がきっちり分かれてるので、二回目以降って全然笑えんのですよね。

で、この作品てばどこに主眼なの? って言えば、まあ見た人はラストの辺りって答えますけど、前提条件として未来人の男の子が出ますよってのは最初の段階で判る話ですよね。

筒井版をあれだけ強調してるんだし。

悲恋であれ、ベタベタな話であれ、もう未来人の男の子が出る事はきっちり決まってて、それであのどんでん返しですから、実はどんでん返しとして機能はしてないんですよね。

という訳でその辺りもそぎ落とされると、残ったのは真琴と千昭のキャラクタだけなんですよね。

だってそこだけじゃないすか、曾てとの違いって。

湿っぽくないよー、勢いがあるよーってのが売りですよね?

つまり突き詰めると、真琴嫌いだとこの話って面白いと思えんのかもしれんのですよ。だってソコしか見るトコ無いんだし。

まーそういう分析はさておいて、僕個人が好きなのは台詞回しで、力入ってないんですよねえ。

こうしてやる! こうやってやるぞお! っていう強い力が無く、ケレンも強くなく、すーっと流れる様に溶け込みますよね。この辺りって凄いなあ、爽やかな印象を書けるってのはすっげえなあって見ます。

舞台装置としてもそれほど奇をてらってないし、異常性を出してどうこうってんじゃないし、この『フツー』感ってすっげえですよ。「フツー」感って難しいと思うんですよ。

だってあーた、フツーは退屈ですから、フツーをフツーに描けば、フツー過ぎていかん訳ですよ。

フツーをフツーにやっていながらフツーじゃないってのは、なかなか出来るもんじゃないんじゃないかな、と思います。

と、知人に「真琴があんま好きじゃなくて、これフツーの話だよな」と言われた悔しさをバネに筆を取りましたがいかがお過ごしでしょうか。ちくしょう。

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コメントについて

6月 21st, 2007 by admin

コメントは切ります。
理由はコメント欄と戦うと負けるからですよ。
永久的敗北宣言と取って貰って結構。
何かご意見があればメールを下さいな。

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オレVSオレ

6月 17th, 2007 by admin

昔の価値観って奴が、割と重荷になる事があったりするよ。
結局自分の事知ってんのは自分だけなんだが、その自分が唱えた理屈に渇を入れたくなる事が良くあるよね。
かつては正論吐いたら最高ーッ! 気ン持ち良いッ! とは思ってたけど、世の中正論を言ってどうこう出来るものばかりではなく、特に自身に襲いかかってきた場合の正論の鬱陶しさは半端じゃない(笑
要はどういう事かっつーと、曾ての価値観は取り敢えず捨てられるっていう価値観もありなのかなという事で。つまり割とダラダラ書いて行けたらいいよねー。
とりとめのない気負わない事をダラダラという、何の意味も価値も無いゴミくれを目指して邁進致します。
人間の存在なんか、紙切れより薄いって。

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結局ン所

6月 17th, 2007 by admin

何だかんだ言うても流行の波の多分に漏れず、blogをご好意で始められることになりましたよ。

と言っても、勝手知ったる元々のサイトには何も残せず、結局ゼロからの積み上げかァと思うと、なかなか色々と大変な気分になる訳ですがね。

何はともあれ、 元のサイトはアップロードすら出来ぬ状況下だったので、止むに止まれぬ状況下であったのですよ。出来ればこちらは、きちんと体裁ばった事を書いていけるといいなあと思っております。

どうか宜しくお願いします。

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