コミュコミュうっせえんだよ

10月 14th, 2007 by admin

 非コミュという言葉が溢れている。
 まあ、書いて字の通り、コミュニケーション能力が無いですよという意味だが、よくよく考えれば、一体コミュニケーション能力ってーのは何だよって話になる。
 ところで僕が最近どうにも気になるのは、人は褒められたい、一番になりたいという欲求が強い動物のようだ。
 若いコミュニティだと、その欲求は顕著であり、僕はとみに実感する。まあ、偏にそれは、『欲求不満』として実感するのだが。
 どういう事かというと、学校てのは指標がいっぱいある。同じ年齢で大体同じ地域に住んでおり、小学校こそ制限は無いが、中学校以降になるとその個人が持ち得た能力に応じた所に選り分けられる。
 つまり、集団として考えれば、似通った人間が集まる事になる訳だ。
 そして、その価値観の物差しは、全国共通で『勉強』になる。
 勉強が出来るかどうかなんて事に、僕は意味がないと思っている。そりゃ、勉強が出来る人間の方が話していて面白い人が多かったりする。そういう傾向はある。まあそれは単純な理由で、勉強が出来る=記憶力がそれなりにある って事であり、記憶力や理解力を前提とした、要は前提条件としてこっちがいっぱい何かを掲示して、理解を督さずとも共感可能であり、その上での話題をやりとり出来る確率が高いって事だ。
 大体、文字読めないとかいう段階で既に共感不可能な訳で、そういう最低限のメソッドとして勉強がある事に僕は何等異存がない。嫌いだけれどね。
 さて、僕の個人的な価値観は脇に置いて、勉強という物差しで僕等は選り分けられ、そしてその内個々人の能力に合った職業に就いて、自分の力で金を稼いでいく事になる。
 良くも悪くもその過程においては勉強が全ての指標になる。勉強が出来る=頭が良い ので、選択肢が広くなる。まあ女の子にモテる確率も高くなるだろう。何故って将来食い扶持に困らない可能性が高い有望株だって事だからである。
 スポーツだ、ツラだ、センスだと他にも条件があり、勝手にその指標を飾り立てるが、結局経済力の無い人間より、ある人間の方が価値がある。それは間違いない。そして働く=経済に直結した時、他の諸要素はどんどん価値を失う。
 生きていくためにはお金が必要で、豊かな生活をしていくにもお金が必要で、結婚式を豪華にするにもお金が必要で、子供を作るにも産むにもお金が必要で、子供に豊かな教育を与えるにもお金が必要で、センスの良い服を買うにも、車を新車にするのにも、エステに通うのにも、病気をした時に病院に行くのにも、そして死ぬ事にすら、お金は必要である。
 そして、それは多ければ多いほど良い。間違いない。じゃあ非常に簡単である。お金がある奴とくっつけば良いのだ。明確な答えだ。
 という訳で、勉強の指標は何時の間にか、お金の指標へと変わってしまう。それは構わない。それは一切問題ないだろう。
 じゃあ、お金を稼ぐために働いている人達は、何を指標にすれば良いのかって事である。
 答えは簡単。仕事が出来る人、である。
 実はこの仕事が出来る人というのがくせ者だと僕は感じている。大体、仕事が出来るって言葉が意味不明だ。I can work.なんじゃそりゃって話だ。仕事が上手に出来るって事でも、仕事が早いって事でも、仕事を理解するのが早いって訳でも、相手先から契約を取ってくる率が高いって事でも、接客応対が完璧だって事でも、難しいプレゼンでも確実に納得させられるって事でも、残業時間がとても多いって事でもない。
 そして、それらのいずれでもある。つまり、仕事が出来るっていう指標は、恐ろしく曖昧で、個々人によってトンデもなくブレが激しいって事だ。
 そりゃあ、数学のテストで95点取ったら、凄いって話になる。全国共通で。まあ問題の出来、不出来はあるかもしれないが、大体は凄い。それは共通の価値観なのだ。
 でも、「僕はこの店の、山田くんよりも契約率が上で、5歳年上の高橋さんよりも接客が上手くて、後藤さんよりは時給が高くありません」って言われて、全国共通で意味が通るか? 通らないよ。間違いなく。
 まあ、全国共通で指標になるものもある。それは残業時間と時給だ。あとは年収。
 でも、時給換算なんて普通はしないので、(まあ職業にもよるけど)そうなると大体、残業時間になる。つまり残業時間=会社への貢献度となる訳だ。
 アホか、と僕は思う。そんなもの指標にしてどうする。
 まあもっと言うと、「忙しい」と言いたがる。忙しいってのがどんだけ凄いのかは知らん。凄く主観的だものそれ。
 睡眠時間が何時間、残業時間が何時間、そして年収が何万円。
 あまりにも曖昧で、そしてそれでいて全員が全員、その価値観に従っている。異常だ。
 まあ、僕はまだ関係ないが、もうそろそろすると「肩書き」とか言うのも指標になるのかもしれない。
 整理しようか。
 僕等は学校に入ると、勉強を指標に据えられる。内外共に。そして社会に出ると、年収が指標になる。公私共に。でも、会社内では、残業時間とか肩書きとか、仕事が出来るとか意味不明で曖昧な価値観が支配する。
 この理由は簡単に言えば、「年齢が一緒じゃないから」だ。スタートラインが一緒じゃないからだ。だからそういう曖昧な価値観に頼らざるを得ない。そして、その超主観的、超曖昧な指標で人を判断する。
 で、その曖昧な指標の中に、コミュニケーションという奴がある。
 これって超曖昧な指標だと僕は思う。何せ、他人と意思の疎通が図れるかどうかだぜ。そんなの、他人がどんな奴かに強く依存する。そして、結果として「非コミュ」なんだ俺と自戒、自嘲する訳である。
 僕は、色々な人と一応話はする。すると、相手がどんなジャンルに強くて、どこまでの深度で、どういう話題なら気持ちよく相手が話すかを探る。で、その相手が気持ちよく話を出来る話にどうにか持って行こうとする。
 つまり、僕の場合はお膳立てをしてやる。で、大体のジャンルの話は出来るから、蓄積部分から僕も話をする。
 これって凄く相手に依存する訳だ。先にも書いたが、『前提条件としてこっちがいっぱい何かを掲示して、理解を督さずとも共感可能』じゃないと、話なんかこっちはしても楽しくない。得る物が皆無だ。ひたすらに相手に声を枯らさせるのに終始する。
 で、その際相手に気持ちよく話をさせる際は、自分が偉い、自分が凄いと思っている事を話させる。人は褒められたい生き物だから。一番になりたい生き物なのだから。で、僕はその際相手を気持ちよくさせるために、へりくだる。相手がたとえどんなに愚かで、褒められたいという欲求を満たすためだけの酷い話を振ってきても、すっとへりくだってやる。
 それが、コミュニケーションとか言う奴なんだろう? 円滑とか言う人間関係を演出するのに必要なんだろう?
 つまり、たった二人でさえも人は指標を決めたがり、その指標の上で優位に立たないと気に入らない。その指標は大抵曖昧だ。で、コミュニケーションとか言うのを実現すると、その指標は大抵下がる。
 なんだそりゃ、である。あまりにもイライラする事実だ。パラメータを上げたら一方が下がるって訳だ。しかも大抵、こっちが気を遣っている事に相手は気付かない。『前提条件としてこっちがいっぱい何かを掲示して、理解を督さずとも共感可能』な状態じゃないからだ。つまり、鈍感で自分の好きな事ばっかり喋ってるアホが、指標をどんどん上げるという事だ。何じゃそりゃ。
 なあ、コミュコミュうるさい人は、一体何が気に入らんのだ。パラメータが全部マックスじゃないと気に入らん部類の人なのか?
 そうじゃない筈だ。つまり、へりくだったり、相手が何を言うかを先読みして、話を振るのが嫌だからだ。
 コミュコミュうっせえんだよ。コミュコミュ言う時点で、コミュニケーションが出来てるって事が前提の、上から目線なんだぜ。ちなみに僕はコミュニケーション能力の欄が悪いですよ。僕から見るともっと最低の人間に指標を付けられてね。
 曖昧な指標ってのには反吐が出るぜ、まったく。

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