で、時かけの話をすればよいのかしら

7月 22nd, 2007 by admin

とりあえず時かけをぼーっと見つつ、もうただひたすらに連休初日をぼーっとしておりました超もったいねえ。

時かけは見返すと、何が面白いのか判らなくなりますね。

つーのはね、口当たりの良いギャグの部分ってのは、こりゃもう絶対必要で、あの絵柄で笑わせるのは必要不可欠なんですけど、そこの部分って何でも
そうですが、初回のみ通用なんですよねえ。で、しつこさがないので、その辺はもう前提条件として見ちゃうじゃないですか。しつこい展開なら、ギャグ自体が
展開に組み込まれるように組むので、へんてこなセリフで胸が熱くなったりする訳ですけど。

でも時かけの構造的に、魔女おばさんが警告してくれた「あなたが得をする分、損をしている人が居るんじゃないかしら」「付き合っちゃえば良い
じゃない」辺りからは見ていて快くない部分なんですが、アレが来るよ、って警告がされてて、そっからの展開はそれを踏まえた物になっている訳で、つまり手
放しで口開けたまんま見れる部分と、作品主軸の部分がきっちり分かれてるので、二回目以降って全然笑えんのですよね。

で、この作品てばどこに主眼なの? って言えば、まあ見た人はラストの辺りって答えますけど、前提条件として未来人の男の子が出ますよってのは最初の段階で判る話ですよね。

筒井版をあれだけ強調してるんだし。

悲恋であれ、ベタベタな話であれ、もう未来人の男の子が出る事はきっちり決まってて、それであのどんでん返しですから、実はどんでん返しとして機能はしてないんですよね。

という訳でその辺りもそぎ落とされると、残ったのは真琴と千昭のキャラクタだけなんですよね。

だってそこだけじゃないすか、曾てとの違いって。

湿っぽくないよー、勢いがあるよーってのが売りですよね?

つまり突き詰めると、真琴嫌いだとこの話って面白いと思えんのかもしれんのですよ。だってソコしか見るトコ無いんだし。

まーそういう分析はさておいて、僕個人が好きなのは台詞回しで、力入ってないんですよねえ。

こうしてやる! こうやってやるぞお! っていう強い力が無く、ケレンも強くなく、すーっと流れる様に溶け込みますよね。この辺りって凄いなあ、爽やかな印象を書けるってのはすっげえなあって見ます。

舞台装置としてもそれほど奇をてらってないし、異常性を出してどうこうってんじゃないし、この『フツー』感ってすっげえですよ。「フツー」感って難しいと思うんですよ。

だってあーた、フツーは退屈ですから、フツーをフツーに描けば、フツー過ぎていかん訳ですよ。

フツーをフツーにやっていながらフツーじゃないってのは、なかなか出来るもんじゃないんじゃないかな、と思います。

と、知人に「真琴があんま好きじゃなくて、これフツーの話だよな」と言われた悔しさをバネに筆を取りましたがいかがお過ごしでしょうか。ちくしょう。

Powered by ScribeFire.

Posted in 未分類 | で、時かけの話をすればよいのかしら はコメントを受け付けていません

Comments are closed.