サタデープログラム 永井一郎

2月 24th, 2008 by admin

 サタデープログラムに行ってきました。今回は永井さんを見に。

 会場は東海高校の明照殿という場所で、正面には仏像が並び立ち、金色に輝いているというもの凄い仏教臭にびっくり。仏教系の高校だったんです
ね。荒木さんの時よりかなり人数は少ない印象で、会場も狭かったです。と言っても、会場設営のため順番待ちをしている内に列はそれなりに長蛇の列へ。会場
に入った時には、100人前後は居たのではないでしょうか。

 そして、永井さん登場。ゆっくりと入り口から入ってきて壇上へと登る最中、歩く様子は白髪交じりではありますが、その足運びは矍鑠としていて、とても今年76歳を迎えられた人のものではありません。

 壇上に上がっても柔和な雰囲気こそあれ、眼も声もとてもはっきりしていて、良く見る老人とされる人間とは一線を画しています。

 さて、肝心の講座内容ですが、「バカモン! 波平、日本を叱る」と題された講演で、主な内容は現在の日本、世界の置かれた風潮や現状の教育、若者の在り方に対して、「人間が劣化している」と称し、それを打破するには物の考え方を教えるべきだ、と言う話をされていました。

 以下、思い出せるエピソードを箇条書形式で羅列します。記憶が前後している箇所もあるかと思います。メモを取っておりませんので。(今回はレポ上げる人は居るのかしら)

・サザエさんの作者、長谷川町子さんが亡くなられたとき、世の学者、コメンテーター達は挙って、「現代を描ける作家が亡くなった」と叫んだ。しかし、私に言わせて貰うとそれは誤りである。

・サザエさんの連載が開始されたのは終戦の翌年、そして開始時点で波平は52、3歳。生まれを逆算すると明治25、6年になる。つまり、磯野家の骨子は明治の理論で出来ており、それを評して現代とはあまりにおかしい。

 尚且つ、磯野家には薄型テレビも無ければゲームも無く、携帯電話も持っておらず、パソコンも存在しない。それでも磯野家は幸せなのだ。

 また、長谷川町子さんはオイルショックの頃には筆を断っていて、既にアニメこそ続いてはいるが、サザエさんとしてはとうの昔に終わっているのである。

・明治の男、波平の良い所は「叱る」事が出来た所である。叱ると怒るは違う。波平も怒りはするが、フォローをする。現代の男性諸氏はどうも叱る事が出来ない。これは何故か。

・終戦を迎えた時、教育勅語は廃された。これは特に問題のある事ではない。だが、それに変わる物が結局据えられる事なく、アメリカの「自由と平等」をそのまま据えて、日本の教育はリスタートした。

・しかし、自由と平等とは言葉からして対立する言葉だし、そこから推し進められた「個性重視」という路線がまた間違いを生んだと思う。個性とは、
「知識」を知らない人間が生める物ではない。ボールペンやハンカチは、機能も名前も知っている筈だ。だが、それを作る事は出来ない。何故か、それは結局の
ところ知らないからである。知らない物は生む事が出来ない。

・だから、詰め込み教育の必要はあったと思う。土台が無ければ個性など生める訳が無いからだ。昔の教育は、幣衣破帽であった。弊衣破帽であっても、きちんとした物の考え方を覚え、立派な社会人になれば良かったのだ。その為には形振りなど構っていなかったのである。

・そこで、物の考え方のコツを教えます。

◇疑ってみる

◇極論を考えてみる

◇逆から考えてみる

◇逆を考えてみる

(他に何個かありましたが、ごめんなさい覚えてません)

・こういう風に物を考えていけば良いのではないか。若い人にも一杯素晴らしい人は居る。会場には一杯一般人が居るが、生涯教育として頑張ってほしい。

以下、散文的に思い出せる事を箇条書き

・俳優とは、一人の人間を作る事である。100よりも1000、1000よりも10000のその人物に対する知識があってこそ、その人物らしさを表現できる。

・昔、京都大学に通っていたとき、演劇部は共産主義で犇めいていた。それが嫌になって部を辞め、親父に「資本主義と共産主義はどちらが正しい」と
聞くと「資本主義も共産主義も、所詮ただ国民に如何に資産を分配するかのやり方であり、正しいとか間違っているとかは無い」と言われた。そこでほう、と
思って中庸的な方法が結局正しいと思っている。

・親父は商売は、相手との儲けの比率は5分5分では無く、6:4にしろと言っていた。7:3ではダメ。7:3だと、5分5分からたった2つ進んだだけだが、3と7には2倍以上の差があり、結局相手を潰してしまう。それは長期的に見て、大いなる損に繋がってしまう。

・地球温暖化問題は世界が抱えた問題の中でもとても重大だ。解決するには三つの方法がある。一つは地球を脱出する方法だ。大学時代の知人で、宇宙
船を開発する研究所に勤めている知人が居たので、「宇宙船を造れば、それは長期的には地球環境を汚染して、地球を住みにくい場所にしてしまうのでは?」と
聞くと、「だから地球を脱出する方法を模索しているのだ」と答えられたので苦笑した。

そして、「もし脱出するなら、世界何百億という人間全てを脱出させる方法はあるんだろうね?」と聞くと、苦笑いして知人は居なくなった。

二つ目は、排出する量を減らすという方法。これは現実的である。

実際に、多くの機関などで実現されている。

三つ目は、極論だが、二酸化炭素は金銭が産みだす。動物は金銭を欲しがらず、人は金銭のために二酸化炭素を排出している。だから、金銭の儲けを大型ジェットの費用、50億以上はもれなく寄付する様にすればよい。それ以上は、分配すればよい。

・マスターシャーフーは良かったと思う。何でも修行だと言うのは、たとえば子供がお使いに行くのも修行だ、と思うのであれば良いと思う。

確かにたまに難解で、子供が理解できるか? と首を傾げるのもあったが、概ね私はあれは好きである。

とても面白い会でした。

その後、同じ会場で白石稔のトークショー!がありましたが、アホみたいに並んでいたので入れず、そのまま帰路へ。

Posted in 未分類 | No Comments »

2007年俺アワード

12月 31st, 2007 by admin

2007年は豊作だったと思うんですよね。

それは間違いないかと思います。

・電王

当初もの凄く消極的でした。

龍騎は好きだったんですけど、龍騎は何たってライダー同士の闘争を軸にしている話でしょう? つまり今まで個人主義ながら、公の正義に直結した個
人主義という大義名分を無理矢理通していた路線に完全に見切りを付け、極限までの個人主義を貫徹した話でした。で、そういうグループの中で唯一主人公だけ
が綺麗事を吐き、綺麗事を吐くが故に『甘い』と罵られる。集団において個人なんて路傍の石くれみたいに扱われるのが当然で、個は必要ありません。そして握
りつぶされて当然とされる論理が未だ通用する最中、個の論理優先で無ければ生き残れないと突きつける。

まあ、個じゃ結局何も出来ず、ナイトと事実上組む事になるんですけど。

龍騎がそういう話だった以上、凄いビビってました。

ところが蓋を開けてみれば、救いのあるコメディ路線。

コメディって嫌いだし、ヌルいからイヤなんですけど、この救いが思いの外効いてくる。毎回毎回、ほんの一片の可能性の綱渡りで、どうにか救われる。

お涙頂戴路線はいかん、理由が無いからとか思ってましたけど、一旦ツボに入れば見事な物で、逆にそこを軸にキャラに苛烈な体験をさせ始めるんですよね。

でも健気にも自分のキャラクタの限界まで耐えて、どうにか首の皮一枚で繋げる。この健気さと、救いが大きくて、感情移入して見てしまってました。

あと三回と回数は少ないですが、まあ安心して見られると思います。ダレも無かったし、恐ろしく完成度が高かったと思います。

・天元突破グレンラガン

ベタでした。

ベタって言うのは、マンネリとはちょっと違って、過去にあった「あるある」って路線をそのままなぞる事を言います。

そして大抵「ベタじゃん」は否定的意見に良く使われます。新しくない作品に存在意義など無いって事を象徴してます。

ところがまあ、ベタは決してボクにとっては悪い意味じゃあない。

この作品についてはもう随分と色々な意見を聞きました。ボクも随分書いた気がする。ただ、それだけマジにさせてくれた。日曜の8時代は毎週手に汗握ってテレビの前に居ました。どこまでも真剣に噛り付いていた。

作品自体が内包していた諸要素については、誰かが解説を耳にタコができるほどしてくれるでしょう。ボクの役目じゃあない。

年を少しばかり喰うと、「俺はこれが好きだ!」となかなか言えなくなります。言う発言に少しばかり「年甲斐も無く」とか、「アンタの見方はおかしいだろう」とカウンターの影を見てしまう。で、ボクはそのカウンターを甘んじて受けようと思って「良いですよこれ」と言う。

いびつですよホントに。どうしようもない。キャラクタを掘り下げる事とか、展開を盛り上げるシークエンスで必要不可欠な要素の欠如とか、ベタ展開
のくせにベタな部分を削ぎ落としてたり、肝心な所で照れちゃって、本当にきちんとした魂に残る演出をしておけば『残ったのに……』と惜しくなる演出が数多
くあったのも事実です。

でもボクはカウンター受けますよ。受けても構わないです。どんどん来てくださって結構。そのくらいマジにさせてくれた作品ではありました。

・電脳コイル

暴論ですがね、教育テレビの番組をいい年こいたオッサンが目を輝かせて噛り付くって態は、決して褒められたモンじゃあない。テレ東ならええのんか
と言いますが、まああそこは見てナンボじゃないですか。チャンネル変えた瞬間に覚悟完了じゃないですか。でも教育テレビは覚悟が必要あってはいけない。だ
から本来ボクのフィールドであって良い筈がない。

ところがまあ、蓋を開けてみればヤバいくらいに噛り付いてました。

新鮮な驚きという点ではもっとも驚きを覚えました。設定一個で話をきちんと捻ってくるし、細かい点まで考え尽くされたストーリー展開も、キャラに役割を与えてあげる懐の広さも、王道かなと思います。

つかボクの根底には間違いなくNHK教育のアニメって根付いてるし。たぶん、他の大人になってから見たものよりも。小学一年生のころ、ナディアを見た衝撃は未だに燻っていると思います。まあそれがエヴァに萌芽したんだと思いますけど。

この先、この作品を見た子供が大きくなってくるのかなあと思うと、まだちょいとばかりオタクを続けたい気持ちになります。

・ヱヴァンゲリヲン

震えました。

ストーリーなんか一緒なんです。そんなの重々承知。ストーリーは曾てすり切れるほどビデオで追っかけたし、カットもたぶん一番テレビで見たアニメの中で見ている。

そればかりに、この作品に関しちゃボクは、シンジくんと同じ年齢の時に見たまんまのスタンスなんです。アスカも綾波もシンジくんも年下になってし
まったけれど、ミサトさんや加持さんの年に近づきつつあるボクだけれど、どうにもね、シンジくんと同じ年のスタンスで接してしまう。

勘違いしないで欲しいのは、それは『親しさ』じゃないです。明らかな『拒絶』です。

「ああ、あるある」と思った事はないです。常に絶対に自分と相容れない作品だからこそ、どうにか吸収しようと思った。分析して、自分の物にしてやろうと思った。

で、時は流れて10年。2015年は間近、新世紀が新世紀だった頃などとっくのとうに過ぎ去り、セカンドインパクトは起こらなかった。

ボクといえば、一昔前の物ほど一番ダサく感じる物は無いという奴で、エヴァでごっそりたまった知識を垢と判断して削ぎ落とすのに必死でした。

で、エヴァは過ぎ去った過去の作品、既に何の新規要素も無い、庵野はカラッカラの抜け殻、ただの安野の間男というイメージにすら成り果て、未だにクレーンキャッチャーの景品に並ぶエヴァのキャラを見ては、下卑た笑いを浮かべたものです。

「今更エヴァでもないだろうが」

ところが、今更ヱヴァだった。いや、今だからこそヱヴァだった。

見る直前はもう完全に、庵野の死に水を取りに行くつもりでした。

今更エヴァでもないだろうが。実写にうつつを抜かし、またも笑いを提供するのか。せめて、もう一度だけ、ボクをシンジくん並みのスタンスに返して
くれと一縷の期待を込めながら。でもホントに一縷、1ミクロン以下のほんのごくわずかの期待です。大半は失望と絶望と、諦念と嘲笑を込めてやろうと手ぐす
ねを引いていた。

結果は見ての通りです。やられた。ころっとやられた。これ以上無いほどにころっとやられた。

今ですか? 破がダメだったらどうなっちゃうかわかりませんね。早く見たくてたまりません。ボクの一日は携帯から流れるBeautiful Worldから始まるしね。

そしてボクは手痛いカウンターを喰らうんでしょうが。でも、良い。それで良い。

他にも色々見た気がしますが、ボクの今年は大体こんなでした。では良いお年を。

Powered by ScribeFire.

Posted in 未分類 | No Comments »

京都

11月 24th, 2007 by admin

 京都行ってきました。

 と言っても観光を全力にこなそう、という趣旨ではなく、大阪に会社の用事で来たので、そのまま帰るのは悔しいというもったい無いの精神ですが。

 まあ主目的は安彦良和展でした。

 筆致も豊かに、絵柄も多彩というのはまあ言うまでもないですが、ご本人が書かれた小説があるのを初めて知りました。それも民族系ばかり。

 各国の民族的な特色を元に描かれた絵は、いわゆるピタッとしたSF的な服とはまた別で、生気溢れるまた違うスタンスの絵で、生命力と躍動感が安彦氏の絵には常に見えますが、それが殊更に満ち溢れているように見えました。

 そう考えるとガンダム系は有名ですが、まあ若干氏には窮屈な気もしました。

 そして矢張り年代、作品数を考えると多作ですし、多忙なのが伝わってきますね。歩みを止めず、常に前進しているのには実に感服しました。

 と、そんな印象を抱きつつ、外へ出ると白髪の男性とすれ違い。

 恰幅も顔も心なしか拝見させて頂いている顔に似ている。

 4時30分頃で、講演会が開かれていた筈なので他人のそら似かもしれませんが、もしやあれは安彦氏本人だったのかなあ、と勝手に思い、僥倖だなあと思ったりも。

 まあ完全に別人でも良いんですけどね。でも本人だったらラッキーだなあ。

 で、4時30分にそのまま帰るのも何なので、京都をぶらつこうという事に。

 しかしスーツ一枚を引っかけて、朝の9時に急いで豊橋を出てきた都合上、京都の空は思った以上に冷たく、コート一枚を羽織ってくれば良かったと後悔。

 そして何よりも時間を増す毎に溢れかえる人。人。人の群れ。

 そう、世間は三連休の初日かつ、紅葉シーズン真っ盛り。まさに人でごった返すのは明白の状況なのです。

 観光案内に数時間でたどり着ける場所を聞くも、一体そこがどこで、どういった状態なのかも想像が付かず、ライトアップと言われても心躍らず。

 新幹線もほぼ立ち詰めで、かつ会社のイベントもホテルでの会食で座れず、且つその後の展覧会も立って見るのが普通。

 僕自身は左程構いませんが、何より後輩を休ませるのが先決と、喫茶店を探す事にします。しかしながら考えは皆同じと見え、駅周辺をうろつくも、喫茶店はどこも満員御礼。十軒ほど肩透かしを喰らい、休む場所を求めさ迷い、結果脚が疲れるという本末転倒の状態。

 結局、駅から直結ではない京都タワーまで行き、一息を入れ携帯を弄り、少しばかり京都らしい店を探すも、なかなか決まるものでもありません。

 じりじりと日が落ち、さらに温度が下がれば、最早観光という選択肢はまっさらになり、夕食に一縷の僥倖を見いだすのみになりつつあります。

 となれば夕食にかかる責任は重大。まったくプランを立てずに何となく付いてきた後輩の二人は、人混みと今日の移動の疲れからか言葉も少なになりがちで、どうにも肩身の狭い思い。

 どうにか駅周辺で二、三軒見繕い、駅に舞い戻ると、様相はまた変化していました。喫茶店を探していた時よりもさらに人の数が増しているのです。

 その数、ざっと二倍は居るでしょうか。帰宅の途に付くか、若しくは今宵の宿を求める人の群れか、はたまた、我々の如く夕食を求め集まった観光客か。

 燈火に集う蛾の如く、外套を羽織った人の群れが犇めき、エスカレータに乗るのにも警備員が一定時間の制限を掛けるほど。

 人が居なければあっという間に辿り着ける、僅か数十、数百メートルを、何倍という時間を掛けて歩く状況は、東京のそれでも、況してや僕の故郷、北海道で体験しているそれとも比べ物になりません。

 そんな状況下、11階のレストラン街に行こうという人の数たるや、まさに考えるまでもなく、押しくらまんじゅうをして詰め込まれるとて、その中に入る事すら至難の業。エスカレータを使うも、人の多さを考えればそれもまた避けるべき事。

 結局、11階のレストランを諦め、他の箇所を探すも、「12人待ち」「15人待ち」と言った様子。とても入れるものではなく、途方に暮れます。

 仕方無く、タクシーの運転手に飲食店の在り処を尋ね、連れて行って貰うという選択肢を取ります。

 何処に行きたいか、と尋ねられますが、決まっている訳も無く、運転手の器量に委ねる事に。

 暫しタクシーに揺られ、着いたのは先斗町という場所。

 人混みは容赦なく、袖を触れ合う事に気を遣う程の余裕も、そして空間もありません。そして、通りに入って驚愕。

 実に狭い。その道幅、実に人二人が通れる事がせいぜい。

 その中を燈火だけを頼りに歩きます。

 路地裏にも似たその空間、路地裏と違う点は光がある事。

 左右を見渡せば、鰻の寝床の様に店が犇めき、店と店との間に隙間がありません。小綺麗に見える店の数々は、歴史を感じさせつつ、それでいて古臭さは無い。

 そして、途切れない。行けども行けども店が続く。

 前にも、後ろにも、横にも人。狭い路地に人が芋洗いの様相を呈し、ざわめき、ゆっくりと進みます。

 こんな光景は見たことがない。

 故郷の北海道ではあり得ず、また近年の雑居ビルの密集にも見られない、和を感じさせる光景。

 人々の合間には着物姿のうら若き女性の姿もぽつりぽつり見受けられ、それでいて七五三の様に着物に着られておらず、着こなす姿は艶やかで、ほうと溜息が出るほど。

 日本に住んでいるつもりでは居たけれど、こんな光景を想像だにせず、数時間前に駅をさ迷う中では思いもしなかったあまりに日常とかけ離れた光景に、此処がそういえば、日本である事を深く実感。

 否、京都である事を深く実感。

 しかし、歩きずくめで既に脚は疲弊し、幾ら昼に会食でご飯を詰め込んだと言えど、時計を逆算すればそろそろ決めて為舞わねばいけない時間。

 手持ちも頼りなく、予算と相談すれば、まあ三千、四千までしか出せないなあと言う所帯じみた悩みもあり、結局葱屋平吉という店に入ります。

 葱を売りにした店、という前知識など微塵も無しに、テーブルが開いていたのと、値段との相対を考え、入店。

 そしてお通しを突き、酒を頼もうとメニューを見るや否や、値段表を見て驚愕。

 鍋一人前三千円也。

 じっと財布の中身を見れば、実に五千円ほどしかあらず。額に汗が滲む。

 結局、三人居るのだから、高すぎない値段の物を突けば良いという結論に至り、数品を頼む事に。

 そして、どかっと机の上に何かが置かれます。

 薬味、と言われたそれは山と盛られた葱の山。こんもりと木で出来た器からこぼれ落ちそうな程に、緑色の葱がつやつやと濃緑色を輝かせています。

 成程、葱の店だものなと頷き、運ばれてきた豆腐の上にぱらりと振り掛け、啄ばむ。箸で簡単にほぐれますが、器が深いのもあり、随分と深くまで箸が届きます。そして、とろりとした薄い琥珀色のあんかけと、ぱらりとほぐれる乳白色の豆腐とが交じる。

 酒に弱い性分で、日本酒は確実に潰れるし、帰りの事を考え敢えて弱そうな酒を頼みましたが、この薬味と豆腐が実に美味い。美味すぎて、目の前に置かれた弱い洋酒をとても強く後悔。残念。

 そして、運ばれてくる料理のほぼ全てが美味い。雰囲気、立地というのもあるのでしょうが、実に味に気が利いている。

 正直な話、名古屋の味は僕には少し濃すぎ、赤出汁は既に苦手の領分に足を入れていますが、この料理店の味噌は上品で、しつこくなくさらりと溶ける。

 口々に、日々呪いつつ口に糊している料理との差をこれでもかと僕らは語りました。そして、最後に葱の黒焼きを注文。

 しかし、玉葱が御薦めだと、一旦注文したにも関らず店員が卓子に来て言うではありませんか。

 半分は店側の理由、半分は真に御薦めを食べさせたい理由と見ますが、まあ此処で騙されても別に構わないと言ったふうに、玉葱の黒焼きを注文。

 一緒に来た一人は、電子レンジで温めた玉葱と何が違うのだろうと息巻いています。そしていざ玉葱の黒焼きが運ばれてきます。

 四つ切りにされ、白い腹を見せた玉葱が分厚い皿の上に載っているという状況。

 黒く焼けた皮を外側に、塩と味噌の二つが運ばれてきます。しかし、箸は出にくい。それもそのはず、ただ表面が焼けた玉葱を四つ切りにした訳ではあるまいな、と考えている故の行動。しかし、先程の電子レンジを引き合いに息巻いていた男が、すっと箸を出します。

 と同時に驚いたように美味しいと言うではありませんか。

 むむむ、と僕も箸で突く。火の通らない玉葱は苦く、辛く、そして目に痛い。日々食堂で食べる玉葱は、火加減も曖昧で、通り過ぎたり、生焼けだったりと値段に見合った出来。その度に値段を理由に諦念を抱きますが、この玉葱、違う。

 嘘のように柔らかく、甘い。それも苦みの雑じった甘さではなく、どこか懐かしい甘み。味噌を付けても、塩に付けてもこれが非常に美味しい。

 一旦手が付けばあっという間で、嘘のように早く玉葱は皿の上から忽然と姿を消していました。まさに店の名を冠するだけはあった訳です。

 こうまで美味しいと、鍋も食べたかったなあ、と後悔する訳ですが、まあどう転んでも財布は首を縦に振ってはくれません。それだけを心残りに、店を後にしました。

 人混みは店を出たときにはまばらになっており、足早に駅へと急ぎます。

 京都駅へと急ぐ電車の中にも、麗しい着物姿の女性がすらりと居る訳で、目を奪われます。成程、こう云った風景も悪くないな、とぎゅうぎゅうに押し詰められ、立ち位置すらままならない最中で余裕をかましてみたり。

 そして京都駅に着き、新幹線で京都を後にしました。

 寺も神社も行かず、ぶらりと立ち寄った中でこうも面白い物に出交すとは。成程京都は面白い街です。今度は少しばかり調べて行ってみたいものです。

Powered by ScribeFire.

Posted in 未分類 | No Comments »

アニメじゃない

10月 30th, 2007 by admin

 ニコニコから消されるアニメのDVDは買うべきじゃないらしい。

http://d.hatena.ne.jp/pmoky/20071028/p1

 まあそれに対して、様々な反論が渦巻いていて、尚且つテレビ屋やら実際のスタッフやらがコメントを残している。

http://soulwarden.exblog.jp/6469132/

 たとえばこちらだとかね。

 まあいちいちごもっともなんだが、「何が悪いか」の原因の擦り付け合いという点では、ユーザ側と制作者サイドが一切譲らない平行線を辿っているように見える。

・どうして僕らが高いお金を出してDVDを買っても、スタッフに届かないんですか。

 まずここである。

 広告代理店やテレビ局が中抜きしまくっているからだよ! という説がユーザ側からは出ていて、(一部制作者サイドからも)それに対してテレビ屋
さんは、「そもそも市場規模が他の番組とは違うし、すっごく小さい規模だから、僕らは少ない予算で仕事してるだけなんだよ」と言う。

 まあ、このままだと、プロデューサーがラジオで発言したと言う、

「某代理店に、”何もしてないのに何でお金払わなきゃいけないんですか!?”って聞いたら、”既得権益です”って言い返された(笑)」

 という辺りの発言が有力視されて、今のところ声をあげない広告代理店が悪者になるんだろうね。

 という構図はこの際置いておいて、じゃあ何でまたこういう「アニメ業界は死ぬほど厳しいよ!」という話が事ある毎に僕らのホットTOPIXになるんだろう。

 恐らくは、発端の構造自体にある。

 そもそも、手塚先生がアトムをアニメ化する時、前例が無い中で手段を模索していった結果、

 ・人件費が馬鹿みたいにかかる

 ・一人じゃ作業量がとても追っつかない

 という問題にぶち当たったはず。そこで、手塚先生は予算を低く抑えるために、人件費を削り、作業を分担してアニメを作りました。その慣習が今でも根付いているんだよ。

 というのがアニメの発端だと思う。

 手塚先生は数多くの事を成し遂げたけど、その多大な功罪の中じゃ罪とされる方だと思います。

 で、この二つの打開案が現在に至る、

 ・人件費がべらぼうに安い

 ・殆どが外注さん。むしろ外国に頼まないと作業が進まない。

 という構図を産みだしている訳で。この辺までは基礎知識ですね。

 で、問題は「手塚先生はそりゃ他に著作権はあったから良いかもしれないけど、フツーのスタッフはどうするのさ」って問題になる。

 たとえば僕らが良く知ってる例をとると、マンガ業界だと、著作権とか他の権利だとかが、マンガ家に振られる。出版社も、アニメ化した人も、マンガ家もそれなりに現状で文句は無いはずです。凄く巨額に及ぶ利権を持った人間も数少ないけれど居るわけだし。

 これが出来る理由は、

 ・マンガ家は分業じゃなくて、大抵一人だから

 というのが前提条件な訳です。

 アニメの場合は分業化が進んでいる都合上、一個の作品を作るのに莫大な人員が絡んでくる訳で、それをポンと誰かに渡すというのがちょっと厳しい
上に、それが一般的な慣習になっていない。だからスタッフは「自分の著作物だ」と言い張る事が出来ないし、権利者団体やテレビ屋、広告代理店なんかに強く
出る事も出来ない。

 まあたまーに著作権を総監督が持っている場合もあるみたいですけど、現状を構造から打破できてる様には思えないし、巨大利権に繋がってる風もありません。

 でもこれをね、20年経っても未だに作られ続けているあのロボットアニメの監督とかが利権を握ってたと考えるとちょっと影響を考えてしまいますねえ。

 だってさ、もし監督が玩具屋やテレビ屋相手に「お前らに商売をさせてやる」という姿勢で仕事出来たら、払われる給料だってもうちょっと強く出ら
れるんじゃないの? 予算が潤沢じゃないのは重々承知だけれど、現状よりはもうちょいどっちにお金を引っ張るかの話になった時に、構造こそ打破できなくて
も比率に口出す程度は出来るんじゃないの? とか思ったりもする訳です。強く出られないって時点で交渉の席に座る事も出来ない現状よりはマシだよね。

 で、もう一点はやっぱりスタッフの冷遇。

 会社によっては社員待遇で年金とか福利厚生とかを受けさせてくれるって所もあるようだけれど、大半は「所属」扱いで社員待遇じゃない筈だよね。

 えー、この辺は恐らく法的なものも絡むと思うんだけど、社員で雇うとお金がかかるし、恐らく残業だとかの概念も発生するからだと思うんだよね。

 でも他の一部の会社はどうも社員待遇らしいし、それをアニメータさんが確実に受けられる環境ってのはどうしても最低限の義務の様な気がしますよ。

 まあ凄いお金が発生するとは思うけれどね、そこで人が流れないとウソだよね。社員待遇にしてくれるならそっち と尻軽に動かないと会社も考えないよね。

 そこをね、「ああいう業界に居る時点で薄給に耐えねばならん」「世捨て人じゃなきゃつとまらん」みたいな、精神論じみた「金は汚いよ!」みたいな問題にすり替えてるのも恐ろしく問題なんじゃないかなと思う訳でさ。

 だってお金無いと困るよ? おまんま喰わないとクリエイトどころの話じゃないですよ。忙しいは正義みたいな美学も置いておいて、その辺の環境配備をしないと問題外なんじゃないですかねえ。

 ま、簡単な話DVDを買う買わないで問題はなーんにも解決しないと思うんだよね。結局、構造自体に問題があるのだから、そこをどうやってクリアしていくのかを明確にしていかないと、何も変わらんのだよね。

 そして僕らに出来る事ではないのですよそれは。アニメのプロデューサーが広告代理店を悪者にすれば問題が解決する訳じゃない。ニコ動ごときの市
場規模でなんかやっててもしょうがない。大体、妖のDVDがニコ動で300万円出た! って言ってるみたいだけれど、300万って個人の年収以下だぜ? 
人一人雇えない程度の吹けば飛ぶよな微細な金額なんだぜ? これが3000万、3億、30億となれば話は別だけど、今のところあんまり誰の財布も暖かくで
きてないよね。同様に冷たくも出来てない。

 結局ね、もう最初にも書いたけれど制作者サイドとユーザがお互いに擦り付け合いをやっているだけに過ぎない訳で。ユーザはタダで見てます。こ
れは問題外に悪いし、それを見て放置して、構造的な見直しをしないアニメ業界人も片腹痛い。ここで言う構造的な見直してーのは、広告代理店やらテレビ屋や
らから金を毟れってんじゃなく、自分たちの立ち位置の改善ね。皆さん自分の頭の上のハエを追うべきなんですよ。ね。だから僕は会社に行くよ。

Powered by ScribeFire.

Posted in 未分類 | No Comments »

メガ牛丼

10月 25th, 2007 by admin

 まったくの茶色である。

 牛丼とは、色のコントラストから成っている。それは良く火が通り、特製のつゆがかけられた牛肉、飴色になるまで煮られた玉葱の「茶色」、理論上
幾らでも取って良く、辛みが味わいにもコントラストを与える紅生姜の「赤色」そして、銀シャリという俗表現すら存在する、日本を代表する甘みを帯び、何に
おいても欠かす事の出来ないお米の「白色」という三色だ。

 本来の牛丼とは、この三色が存在しなければ成立しえない物だ。

 少しでもつゆが多すぎれば、白い米は姿を隠し、火の通りが十分でなければ牛の色は色褪せる。紅生姜が欠ければ、それは画竜点睛を欠くと言っても
良いほど、味からメリハリが消えてしまう。そう、この三色こそは牛丼が牛丼であるためのバロメータ。言うなれば牛丼の存在証明である。

 しかしながらこのメガ牛丼、のっけから茶色である。

 箸で茶色の肉の層を啄ばむも、向こうにちらりとも白米は姿を現さない。丼から溢れ落ちんばかりにこんもりと盛られた肉からは、些か狂気すら漂う
ほどの容赦のなさである。湯気を立てる態は威風堂々としており、いつもならば我先にと紅生姜をぱらりと乗せ、すっと白い米のカンバスに箸を突き立てるのだ
が、何とその突き立てる先が無いのである。

 言うなれば、岩壁はつるりとガラスの様な態であり、其処にピックを打ち込むも、凹凸を掴むも無謀という最中にて、ロッククライミングをやろうと意気込むが如くの愚行。湯気の向こうは茶色い地獄絵図である。

 ごくりと生唾を飲み込み、いつもよりかなり多くの紅生姜を乗せ、無理な二色コントラストで再度牛丼と対峙する。

 そして、茶色い岩壁へと箸を突き立てた。箸はするりと肉をすり抜け米の層へ。否、無理にでも牛丼の丼たる証を「米」に求めようとした、無謀にも似たやせ我慢がそうさせたのだ。

 箸で抄い、口に搬ぶ。

 口中に広がる獣臭。これは牛丼の味ではない。肉、そのものでしか無い。

 口中に伝わる味も、そして箸で抄った範囲も、比率が肉に押しのけられていた。尚且つ無惨にも、米は肉の下で完全に肉汁ともつゆとも知れぬ何かに塗りつぶされ、完全にその白さを失っていた。

 二口。三口と飲み込む。

 肉に容赦など感じられない。

 その態は焼き肉に例えられよう。つまり、炭火でぱちぱちと焼かれている焼き肉は、自分の好むと好まざるを抜きにして、時間と共に食べねばなら
ぬ。時が過ぎれば肉は焦げ、時が早ければ肉は食えぬ。哀れ、食を求めに来て、食にその手綱を握られているのである。まさに、焼き肉は肉によって牛耳られた
食と人との立ち位置の戦い。そして常に人は負けるのである。

 そう、今まさに肉は人に完全な勝利を齎していた。一口ごとに肉が嫌いになる。

 肉汁と脂とでぎとぎとと舌にまとわりつく米は、既に日本の食卓に欠かすことの出来ぬ主役ではない。既に場末で饐えた匂いを発する固めるテンプルと大差あるまい。

 違う所は喰えぬか喰えるかだけである。

 だが、それでも口は進む。これは時間経過で食べられなくなる類いの食物。経験がそれを如実に語る。故に、肉に敗北しつつ、米に絶望しつつも口を動かす。

 そして、更なる絶望が首を覗かせた。

 あれだけあった肉が、何時の間にか無くなっている。

 いつもならば、確実に比率など間違えず、肉を残す計算など鼻歌交じりでやってのけようというものだが、何と比率を間違えたのである。

 それは肉の悪意から遁れようとする私の迷いだったのか。眼前の肉を片付ければ、白い米があるだろうとでも思っていたのか。

 しかしそこで待ち受けていたもの、それは、全てのつゆと肉汁、そして大量の脂を吸いに吸った、悪逆そのものと言って良いほどの米だった物であった。

 戦慄である。

 まさにキングオブメタボリックフード。総カロリー1200kcalは伊達じゃないと声高に告げ、尚且つその悪魔の様な脂肪分を最後に残したのである。

 あの雪崩れのような肉が、まだ天使に見えるほどの歯触り、味、そして食感の悪さ。人噛みする毎に食肉特有の臭みを発したあの肉に頬摺りしたくなるほどに、腹回りに緊張が走る。肥える事への恐怖が、ありありと額に浮かぶ。

 だが、地獄の釜は開けられたのだ。それを喰わねば、代金に見合わぬ。

 無心になり、喰らう。喰らい、水を飲む。繰り返しである。

 二杯の水が空になった頃、丼は底を全てこちらに見せ、人類が辛くも勝利した事を証明してみせたのだった。

 牛丼暫く喰いたくない。

Powered by ScribeFire.

Posted in 未分類 | No Comments »

ブラックラグーン 7巻

10月 21st, 2007 by admin

 ターミネーターメイド再登場編。
 今迄それなりに鮮度を保っていられたのは、手を変え品を変え、他ジャンルからの持ち込みが多かったのもあると思う。ヘンゼルとグレーテルのゴシックホラー調、日本編の任侠もの、テロにも首をつっこみ、ラヴコメもどきにもクチバシをつっこむ。
 そう言った姿勢も、一話である程度スタイルが完成し、それを少しずつ見え方を変えているに過ぎない。
 まだ、各登場人物の内面を深く掘り下げるという所にまで到達していないので、書いていける余地はあるが、もうそろそろ終わりを考える時期に差し掛かっているのは間違いあるまい。美味しい間に料理は食べ終わるのがマナーだし、それが料理人冥利に尽きるというものだろう。食い飽き、それでも料理を作らせるのはお互いにとって幸せではない。
 さて、そんな経緯もあってか、今回はとびきりにデカい事件だ。今まではせいぜいがバラライカと三合会だけで済んでいた話が、ヘンゼルとグレーテル編以来にロアナプラ自体を揺るがす程のとびっきりの大きい話にふくれ上がっている。
 しかも、エダのバックに控えるCIAまで嚼んでくるという辺り、今回の花火はどうにもとびきりデカいらしい。その所為か、イヤに前置きが長く、メイド二号が暴れ回っていたのが子供の遊びに見えるほどに、内外含めて動きが激しい。
 これは言ってしまえば、もうそろそろこのお話自体に幕を引く時期になってきている気がする。
 それは、ロックに居場所が無くなってしまった事も大きいだろう。日本編前なら、ロックは尻を捲くって日本に逃げ込めば良かった。しかし、潜水艦編でレヴィに啖呵を切り、認められた上にだ、日本編ではあのレヴィに「あたしはお前の銃だ」とまで言わせている。そして、日本編では自分自身の曾ての姿だった、あの女子高生を救えず、夕闇の住人へ完全に足を踏み入れた。
 日本でもお尋ね者となったロックに、既に帰る場所はない。もう戻れないのだ。
 そして、レヴィに自身の位置を尋ねられる。
「──……なあ、あんたは、どう思ってるんだ? ……鉄火場に付き合うにゃ、それなりの儀式が必要だってことさ。
 あたしはあんたの保母さんでも、保護観察官でもないんだ。
 ……なら───
 どういう名目で、あんたの無茶に付き合えばいいのか、てェ話だよ」
 今までは同じ職場の仲間、という名目で連れ立っていたロックとレヴィだったが、レヴィからロックに、「お前の立ち位置を決めろ」と問われている。
 これにどうロックが答えるかがこの巻の目玉になっている。
 一体、どうこのお話に決着が付くのか。もうそろそろ、その見え始めたEndの文字を見据え始めてもおかしくないだろう。

Powered by ScribeFire.

Posted in 未分類 | No Comments »

‘初音ミクの情報’をごみ箱に移しますか?

10月 19th, 2007 by admin

 まあ、良くある話だが、人工的に真実を捏造し、作り出すにはどうすれば良いのだろうか。答えは簡単で、本当の真実を知っている人間と痕跡を全て消し、同じような真実を上書き、もしくは何もしなければいい。

記録メディアが無かった時代は特に、絶対の真実を伝える物は口伝しか存在しなかった。故に人は真実を伝えるには文字しかないと考え、書にし伝えた。テープレコーダーが開発されれば、ビデオテープが開発されれば、それぞれに真実を託し、嘘偽りない事を証明する物として、人はそれを扱った。

秦の始皇帝は言論統制として、焚書坑儒を行った。記録メディアとしての書を焼き払い、思想を何もかも消しても、何千年経った今でも焚書坑儒は、権力下においての究極の言論統制として、象徴的な出来事になっている。

そう、数千年前に起き、誰も証明する人間が居なくとも、思想を完全に文字通り灰と化した出来事が、皮肉な事に真実として伝え聞かれているのである。まあ、一種の恐怖政治を強いる物でもあったので、恐怖とセットで流布していたとしてもおかしくはないが、何にせよ未だに真実とされている事は特筆すべきだ。

他にも、権力下において言論を封じた例は枚挙に暇がない。だが、逆に言えばそれは、言論統制を行ったという事実が認識され、封じ切れていない事を示している。

つまり、余程の事がない限り、言論を統制し、思想を強制したという汚名そのものを、言論統制で覆い隠す事は出来ない。人の口に戸を立てても、その行為自体を正当化する術は無いのだ。

そして、愚かにもこの現代に、そんな馬鹿げた真似をして自分の意見を通そうと考える、不届き千万な何らかの意志がある。

実に唾棄すべき思考だし、仮に偶然を装った出来事だとて、偶然は連鎖する物ではない。システムは確かにオートマティックに動く物だが、それを動かすのは人間の意志であり、意志をトリガーにせねばシステムはその意志を反映したりはすまい。

インターネットの発祥。それは、核攻撃によるデータの永久的な散逸を防ぐためだった。ネットワーク越しにデータのバックアップを行い、たとえ一カ所がダメでも、数カ所にバックアップがあれば、まだ戦える。そのためにネットワークが築かれた。今、軍がその設計思考で作った物を、多数の人間が自己の意志を介在させ、ネット上のサーバに焼き付け、そしてそれを殆ど制約なく参照している。

情報の散逸を防ぐために作られた物を、言論を封ずる道具に用いようなど片腹痛い話で、実際に誰かの意志が介在したのではないか? という疑惑を多数の人間がデータにし、サーバに焼き付けている。

愚かな行為はたとえ原因を起こした物が何であれ、事実として語り継がれるだろう。人の口に戸を立て、たとえ手の及ぶ範囲全てを覆い隠しても、既に起こった人間の意志その物を打ち消すような事は不可能だ。

それが判らないような人間は、メディアに携わるべきじゃない。まったく、情報が可哀想だ。

Posted in 未分類 | No Comments »

初音ミクと安心メソッド

10月 17th, 2007 by admin

 判らない事を放置しておくのは、どうにも気持ちの悪い事だ。だから人は無理矢理にでも理解をしようとする。

 件の初音ミクのニュース動画を見て、アッコにおまかせのメインとなる人間、和田アキ子は「はっきり言わせていただく、わかりません」と言っていた。

 つまりだ、50またぎの既に感性の古い人間が、技術的な新しさやら、世間の動向やらを知らずに、突然のムーブメントに対してコメントを残せる余
地は、「わかりません」が精一杯なのだ。そして、あの映像は「わからない」という結論を導き出すだけの映像にしか過ぎない。オタクを叩く意図? 違うの
だ。あの映像は、オタクは奇異で、我々とは違う文化圏の人間なんです、判らないでしょう? とブラウン管の向こうのマジョリティに向けて投げられた言葉で
しかない。

 しかも、それは初音ミクという非常に革新的なソフト、そしてムーブメントに対して本来即座に情報をキャッチしなければならない筈のマスコミと
いうメディアが、一切理解をしていないという悲しい現実でもある。マスコミだけが映像を発信し、マスコミに持ち込まねば多くに情報を流布できない。そう
言った状況に胡坐をかいて、これからもそういうあり方をしようと思うのならば、明らかに後発で乗り込んできた上に、今回のように理解をしていない見方など
問題外だろう。一介の新参ブロガーですらもあんな無理解さを示さない。

 たとえ、実際にはきちんと理解していて、世論誘導のためにああいった事をしたとしても、いくら何でも器が小さすぎる。第一、そう言った事をせ
ずとも、きちんと技術的側面から説明し、それがネット内で爆発的なムーブメントを起こした経緯をきちんと説明すればいい。たったそれだけでいい。そうすれ
ば火種を生む事無く、話題にも一切上がらず、僅か3分弱の特集はニコニコに上げられ、殆ど誰も見ずに一週間以内に削除されるだけに留まっただろう。

 そう、普通に放送しただけでは、マスコミだけが映像を発信し、マスコミに持ち込まねば多くに情報を流布できない筈のマスコミが、何の印象も残
せないというのもまた事実なのである。第一、例の特集の冒頭は、「視聴者は知らない。しかし独自の情報網を持っている人間は、既に周知の事実である」とい
う切り口から始まる。

 その時点でマスコミは遅れを取っていて、尚且つその情報がマスコミによらず、既に多数に流布しているという時点で、マスコミに介入の余地はな
い。行き渡るべき人間には既に行き渡り、行き渡る必要の無い人間には行き渡らない。「わからない」なんてメソッドで判ったつもりを装う事しか出来ない程度
の、精神的動脈硬化を起こした人間に、無理矢理ご意見番をやって頂く必要など全くない。

 ただ、ブラウン管の向こうのマジョリティは、「なあにこれ、全然わからないわ」と若年層に聞き、若年層はしたり顔で答えるだろう。その点では、視聴者の意見を代弁しているので、或る意味ではぎりぎりの意味を保ってはいる。

 しかしながら、別にそんな必要は全くない。第一、既に初音ミクなんざ我々にゃあ古い話だろう? 知らない奴に説明する程の事もない。ネット上の
情報など、三日経てば賞味期限が切れる。既に発売から何ヶ月も経ったソフトの存在など、それだけでは一切意味がない。付加価値を付けた上で情報を提供する
のが集金能力を有したマスコミの義務である。あんな手前味噌な構成で、ギャラもあるんだかないんだか判らない程度の小規模な特集で、予算のある、しかもお
昼時の番組がああいう放送をするのは怠慢以外の何者でもない。情報という物に携る者が、それがどのように流布し、どのような物なのかを第三者に説明出来な
い程度の構成の物を作ること自体が問題外だ。情けない。

 これだけの悪印象を与える事がネット文化が栄えた現状に対して、マスコミの出来る最大限の抵抗ですと言うのならば納得はするのだが、この反応を見る限りだと誰も誘導すらされていない。その程度の技術すら無い。

 いやはや、安心したのはマスコミのお里が知れた、一視聴者たる我々の方なのかもしれない。ご立派ですね。

Powered by ScribeFire.

Posted in 未分類 | 1 Comment »

コミュコミュうっせえんだよ

10月 14th, 2007 by admin

 非コミュという言葉が溢れている。
 まあ、書いて字の通り、コミュニケーション能力が無いですよという意味だが、よくよく考えれば、一体コミュニケーション能力ってーのは何だよって話になる。
 ところで僕が最近どうにも気になるのは、人は褒められたい、一番になりたいという欲求が強い動物のようだ。
 若いコミュニティだと、その欲求は顕著であり、僕はとみに実感する。まあ、偏にそれは、『欲求不満』として実感するのだが。
 どういう事かというと、学校てのは指標がいっぱいある。同じ年齢で大体同じ地域に住んでおり、小学校こそ制限は無いが、中学校以降になるとその個人が持ち得た能力に応じた所に選り分けられる。
 つまり、集団として考えれば、似通った人間が集まる事になる訳だ。
 そして、その価値観の物差しは、全国共通で『勉強』になる。
 勉強が出来るかどうかなんて事に、僕は意味がないと思っている。そりゃ、勉強が出来る人間の方が話していて面白い人が多かったりする。そういう傾向はある。まあそれは単純な理由で、勉強が出来る=記憶力がそれなりにある って事であり、記憶力や理解力を前提とした、要は前提条件としてこっちがいっぱい何かを掲示して、理解を督さずとも共感可能であり、その上での話題をやりとり出来る確率が高いって事だ。
 大体、文字読めないとかいう段階で既に共感不可能な訳で、そういう最低限のメソッドとして勉強がある事に僕は何等異存がない。嫌いだけれどね。
 さて、僕の個人的な価値観は脇に置いて、勉強という物差しで僕等は選り分けられ、そしてその内個々人の能力に合った職業に就いて、自分の力で金を稼いでいく事になる。
 良くも悪くもその過程においては勉強が全ての指標になる。勉強が出来る=頭が良い ので、選択肢が広くなる。まあ女の子にモテる確率も高くなるだろう。何故って将来食い扶持に困らない可能性が高い有望株だって事だからである。
 スポーツだ、ツラだ、センスだと他にも条件があり、勝手にその指標を飾り立てるが、結局経済力の無い人間より、ある人間の方が価値がある。それは間違いない。そして働く=経済に直結した時、他の諸要素はどんどん価値を失う。
 生きていくためにはお金が必要で、豊かな生活をしていくにもお金が必要で、結婚式を豪華にするにもお金が必要で、子供を作るにも産むにもお金が必要で、子供に豊かな教育を与えるにもお金が必要で、センスの良い服を買うにも、車を新車にするのにも、エステに通うのにも、病気をした時に病院に行くのにも、そして死ぬ事にすら、お金は必要である。
 そして、それは多ければ多いほど良い。間違いない。じゃあ非常に簡単である。お金がある奴とくっつけば良いのだ。明確な答えだ。
 という訳で、勉強の指標は何時の間にか、お金の指標へと変わってしまう。それは構わない。それは一切問題ないだろう。
 じゃあ、お金を稼ぐために働いている人達は、何を指標にすれば良いのかって事である。
 答えは簡単。仕事が出来る人、である。
 実はこの仕事が出来る人というのがくせ者だと僕は感じている。大体、仕事が出来るって言葉が意味不明だ。I can work.なんじゃそりゃって話だ。仕事が上手に出来るって事でも、仕事が早いって事でも、仕事を理解するのが早いって訳でも、相手先から契約を取ってくる率が高いって事でも、接客応対が完璧だって事でも、難しいプレゼンでも確実に納得させられるって事でも、残業時間がとても多いって事でもない。
 そして、それらのいずれでもある。つまり、仕事が出来るっていう指標は、恐ろしく曖昧で、個々人によってトンデもなくブレが激しいって事だ。
 そりゃあ、数学のテストで95点取ったら、凄いって話になる。全国共通で。まあ問題の出来、不出来はあるかもしれないが、大体は凄い。それは共通の価値観なのだ。
 でも、「僕はこの店の、山田くんよりも契約率が上で、5歳年上の高橋さんよりも接客が上手くて、後藤さんよりは時給が高くありません」って言われて、全国共通で意味が通るか? 通らないよ。間違いなく。
 まあ、全国共通で指標になるものもある。それは残業時間と時給だ。あとは年収。
 でも、時給換算なんて普通はしないので、(まあ職業にもよるけど)そうなると大体、残業時間になる。つまり残業時間=会社への貢献度となる訳だ。
 アホか、と僕は思う。そんなもの指標にしてどうする。
 まあもっと言うと、「忙しい」と言いたがる。忙しいってのがどんだけ凄いのかは知らん。凄く主観的だものそれ。
 睡眠時間が何時間、残業時間が何時間、そして年収が何万円。
 あまりにも曖昧で、そしてそれでいて全員が全員、その価値観に従っている。異常だ。
 まあ、僕はまだ関係ないが、もうそろそろすると「肩書き」とか言うのも指標になるのかもしれない。
 整理しようか。
 僕等は学校に入ると、勉強を指標に据えられる。内外共に。そして社会に出ると、年収が指標になる。公私共に。でも、会社内では、残業時間とか肩書きとか、仕事が出来るとか意味不明で曖昧な価値観が支配する。
 この理由は簡単に言えば、「年齢が一緒じゃないから」だ。スタートラインが一緒じゃないからだ。だからそういう曖昧な価値観に頼らざるを得ない。そして、その超主観的、超曖昧な指標で人を判断する。
 で、その曖昧な指標の中に、コミュニケーションという奴がある。
 これって超曖昧な指標だと僕は思う。何せ、他人と意思の疎通が図れるかどうかだぜ。そんなの、他人がどんな奴かに強く依存する。そして、結果として「非コミュ」なんだ俺と自戒、自嘲する訳である。
 僕は、色々な人と一応話はする。すると、相手がどんなジャンルに強くて、どこまでの深度で、どういう話題なら気持ちよく相手が話すかを探る。で、その相手が気持ちよく話を出来る話にどうにか持って行こうとする。
 つまり、僕の場合はお膳立てをしてやる。で、大体のジャンルの話は出来るから、蓄積部分から僕も話をする。
 これって凄く相手に依存する訳だ。先にも書いたが、『前提条件としてこっちがいっぱい何かを掲示して、理解を督さずとも共感可能』じゃないと、話なんかこっちはしても楽しくない。得る物が皆無だ。ひたすらに相手に声を枯らさせるのに終始する。
 で、その際相手に気持ちよく話をさせる際は、自分が偉い、自分が凄いと思っている事を話させる。人は褒められたい生き物だから。一番になりたい生き物なのだから。で、僕はその際相手を気持ちよくさせるために、へりくだる。相手がたとえどんなに愚かで、褒められたいという欲求を満たすためだけの酷い話を振ってきても、すっとへりくだってやる。
 それが、コミュニケーションとか言う奴なんだろう? 円滑とか言う人間関係を演出するのに必要なんだろう?
 つまり、たった二人でさえも人は指標を決めたがり、その指標の上で優位に立たないと気に入らない。その指標は大抵曖昧だ。で、コミュニケーションとか言うのを実現すると、その指標は大抵下がる。
 なんだそりゃ、である。あまりにもイライラする事実だ。パラメータを上げたら一方が下がるって訳だ。しかも大抵、こっちが気を遣っている事に相手は気付かない。『前提条件としてこっちがいっぱい何かを掲示して、理解を督さずとも共感可能』な状態じゃないからだ。つまり、鈍感で自分の好きな事ばっかり喋ってるアホが、指標をどんどん上げるという事だ。何じゃそりゃ。
 なあ、コミュコミュうるさい人は、一体何が気に入らんのだ。パラメータが全部マックスじゃないと気に入らん部類の人なのか?
 そうじゃない筈だ。つまり、へりくだったり、相手が何を言うかを先読みして、話を振るのが嫌だからだ。
 コミュコミュうっせえんだよ。コミュコミュ言う時点で、コミュニケーションが出来てるって事が前提の、上から目線なんだぜ。ちなみに僕はコミュニケーション能力の欄が悪いですよ。僕から見るともっと最低の人間に指標を付けられてね。
 曖昧な指標ってのには反吐が出るぜ、まったく。

Powered by ScribeFire.

Posted in 未分類 | No Comments »

“Libera Me” From Hell

10月 13th, 2007 by admin

 うーむ。

 ”Libera Me” From Hellは、ラップは漢の魂だ! という曲のバリエーションが四曲あり、その最後のバリエーションになります、要はグレンラガン26話のカミナとシモンの再会シーンでかかる曲です。

 サントラもざっと聴きましたけど、やっぱりこの1シーンのために見てたんじゃねえかって気がしてならん。

 ビルドゥングスロマンは、マジにロマンな訳です。何故か、一流とされる作家の一流とされる作品であっても、意外と失敗してたりする。

 最近の作品にゃあ、特に見かける事は少なくなりました。理由は簡単、引っ張る人と、引っ張られる人が必要で、今は男が男に引っ張られる事に魅力が
感じられないからです。その代わりにどうも、女の子に守られたいってのが出てきたみたい。か弱い少女に守られたいって願望は、00年代少年の願望のようで
すが、はてさて、それはビルドゥングスロマンたりえるのかしら。

 まあ、そこは最近の作品でも心得ているようで、キミに守られる僕が、キミを守る僕に最後はなっていくのが最近の良い作品とされる作品の条件ですねえ。

 まあ、ちょっと考えるとね、キミに守られる僕は母性なんじゃねえの? とか、キミを守る僕も支配欲なんじゃねえの? とか言う事になりますが、やっぱジェンダーもあるのかなあ、と僕は思ってます。

 男女同権て奴。守られる僕と、守るキミが等価なんですが、そこからの脱却は「僕は男なんだな」だけでは弱い。小学校高学年から中学生くらいは、女
の子の方が成長が早いのですが、そこから男の子の身長の方がぐんぐん伸びる。そのぐんぐん伸びる辺りで、ついでに立場が逆転する、くらいの自然さじゃない
と、最近の意識には合わないんじゃないですかねえ。性差だけが重要じゃない、自然な流れが重要という。

 でもね、キミを守る僕もいつか飽きられる時が来ますよ。

 そして、僕はキミを守る僕よりも、アニキを超えるダチ公に惹かれる。

 偶像なんすよ、確かに。言葉も空虚。足下も覚束無い、ただ胸張ってありもしない自信を盾に、デタラメを言うだけ。

 でも、それ判ってるんだよなあ。

「忘れたのか。俺の無茶に中身をくれたのはお前なんだ。俺の薦めに中身をくれたのは、お前なんだよ」

セリフに頼りすぎる、と言われていましたが、僕はこのセリフは好きなんです。人間的な弱さが見える。実はカミナも人の子だったけれども、精一杯胸を張っていたのだなあと思える。

 僕は虚栄を嫌います。虚栄には裏付けが無いから。虚栄も虚勢も、格好が悪いから。

 でもまあ、かっこわるくても良いんだよなあ。現実に虚勢張る奴は向こう臑蹴り飛ばしてやりたくなりますが。

 それにしてもなんだか、グレンラガンがなつかしいな。

Powered by ScribeFire.

Posted in 未分類 | No Comments »

« Previous Entries