メガ牛丼
まったくの茶色である。
牛丼とは、色のコントラストから成っている。それは良く火が通り、特製のつゆがかけられた牛肉、飴色になるまで煮られた玉葱の「茶色」、理論上
幾らでも取って良く、辛みが味わいにもコントラストを与える紅生姜の「赤色」そして、銀シャリという俗表現すら存在する、日本を代表する甘みを帯び、何に
おいても欠かす事の出来ないお米の「白色」という三色だ。
本来の牛丼とは、この三色が存在しなければ成立しえない物だ。
少しでもつゆが多すぎれば、白い米は姿を隠し、火の通りが十分でなければ牛の色は色褪せる。紅生姜が欠ければ、それは画竜点睛を欠くと言っても
良いほど、味からメリハリが消えてしまう。そう、この三色こそは牛丼が牛丼であるためのバロメータ。言うなれば牛丼の存在証明である。
しかしながらこのメガ牛丼、のっけから茶色である。
箸で茶色の肉の層を啄ばむも、向こうにちらりとも白米は姿を現さない。丼から溢れ落ちんばかりにこんもりと盛られた肉からは、些か狂気すら漂う
ほどの容赦のなさである。湯気を立てる態は威風堂々としており、いつもならば我先にと紅生姜をぱらりと乗せ、すっと白い米のカンバスに箸を突き立てるのだ
が、何とその突き立てる先が無いのである。
言うなれば、岩壁はつるりとガラスの様な態であり、其処にピックを打ち込むも、凹凸を掴むも無謀という最中にて、ロッククライミングをやろうと意気込むが如くの愚行。湯気の向こうは茶色い地獄絵図である。
ごくりと生唾を飲み込み、いつもよりかなり多くの紅生姜を乗せ、無理な二色コントラストで再度牛丼と対峙する。
そして、茶色い岩壁へと箸を突き立てた。箸はするりと肉をすり抜け米の層へ。否、無理にでも牛丼の丼たる証を「米」に求めようとした、無謀にも似たやせ我慢がそうさせたのだ。
箸で抄い、口に搬ぶ。
口中に広がる獣臭。これは牛丼の味ではない。肉、そのものでしか無い。
口中に伝わる味も、そして箸で抄った範囲も、比率が肉に押しのけられていた。尚且つ無惨にも、米は肉の下で完全に肉汁ともつゆとも知れぬ何かに塗りつぶされ、完全にその白さを失っていた。
二口。三口と飲み込む。
肉に容赦など感じられない。
その態は焼き肉に例えられよう。つまり、炭火でぱちぱちと焼かれている焼き肉は、自分の好むと好まざるを抜きにして、時間と共に食べねばなら
ぬ。時が過ぎれば肉は焦げ、時が早ければ肉は食えぬ。哀れ、食を求めに来て、食にその手綱を握られているのである。まさに、焼き肉は肉によって牛耳られた
食と人との立ち位置の戦い。そして常に人は負けるのである。
そう、今まさに肉は人に完全な勝利を齎していた。一口ごとに肉が嫌いになる。
肉汁と脂とでぎとぎとと舌にまとわりつく米は、既に日本の食卓に欠かすことの出来ぬ主役ではない。既に場末で饐えた匂いを発する固めるテンプルと大差あるまい。
違う所は喰えぬか喰えるかだけである。
だが、それでも口は進む。これは時間経過で食べられなくなる類いの食物。経験がそれを如実に語る。故に、肉に敗北しつつ、米に絶望しつつも口を動かす。
そして、更なる絶望が首を覗かせた。
あれだけあった肉が、何時の間にか無くなっている。
いつもならば、確実に比率など間違えず、肉を残す計算など鼻歌交じりでやってのけようというものだが、何と比率を間違えたのである。
それは肉の悪意から遁れようとする私の迷いだったのか。眼前の肉を片付ければ、白い米があるだろうとでも思っていたのか。
しかしそこで待ち受けていたもの、それは、全てのつゆと肉汁、そして大量の脂を吸いに吸った、悪逆そのものと言って良いほどの米だった物であった。
戦慄である。
まさにキングオブメタボリックフード。総カロリー1200kcalは伊達じゃないと声高に告げ、尚且つその悪魔の様な脂肪分を最後に残したのである。
あの雪崩れのような肉が、まだ天使に見えるほどの歯触り、味、そして食感の悪さ。人噛みする毎に食肉特有の臭みを発したあの肉に頬摺りしたくなるほどに、腹回りに緊張が走る。肥える事への恐怖が、ありありと額に浮かぶ。
だが、地獄の釜は開けられたのだ。それを喰わねば、代金に見合わぬ。
無心になり、喰らう。喰らい、水を飲む。繰り返しである。
二杯の水が空になった頃、丼は底を全てこちらに見せ、人類が辛くも勝利した事を証明してみせたのだった。
牛丼暫く喰いたくない。
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