河童のクゥと夏休み
1.人とは善なるものなりや
人とは、善なるものだろうか。
僕は、曾ては性善説を唱えていた。人は生まれながらにして善意に満ちているので、基本的には人間を信じるべきだ、という考え方である。しかしながら、齢を重ねる毎に、それは疑念に変わった。人の本性、それは即ち、悪しものではないか、と。
他者に害を為し、傍若無人に利己を通すことは、如何なる考えによって成されるかと言えば、それは詰まる処、『想像力の欠如』によって成される。
一体何を言っているかというと、他者の痛みを想像できない人間は、他者に対して幾らでも残酷に振る舞う事が可能である。人は想像し得ない他者、理解できない他者に対しては、限りなく残酷な振る舞いをしても、全く痛みを感じないのである。
故に、冒頭の侍は河童を斬れた。
そして、『想像力の欠如』の悲劇は、斬られた河童側にもあった。よもや害なす訳でなしに、斬られる訳がないという憶測が、その身の破滅を招いた。では、どちらに非があったかと客観視すれば、それは明らかである。
故に、人はシャッターを、携帯電話のカメラのスイッチを押す事が出来た。
好奇心が、想像力で考えられる対象への配慮を上回り、結果としてどうなるか、対象がどう考えるかは想像せず、脇に追いやった結果、対象に害を為した。
故に、人は、犬を車で轢き、そのまま立ち去る事が出来た。
故に、マジョリティである事のみを盾に、いじめる事が出来た。
想像力を欠いた人は、悪しものなのである。
2.異なるもの
クゥは『異なるもの』として描かれている。つまり自然の状態、通常状態では有り得ないものだ。
そのクゥが、通常状態では通常の、普通の人間の男の子、コウイチと出会う事でドラマは始まる。
しかし、300年の長きに渡り土の中に眠っていたクゥは、既に『異なるもの』の中でさえ、『異なるもの』だった。
あらゆる母集団からもはぐれた『異なるもの』。結局、コウイチの一家は、この『異なるもの』になるかどうかの決断を迫られ続ける事になる。
そして、実際にはその決断を迫られ続けるのは、コウイチではなく、コウイチの父親である。
冒頭、クゥを最初に河童として認識したのは、父親である。コウイチも、母親も妹も皆、『捨ててもいいもの』『ありふれているが奇異なもの』『不
思議なもの』としか認識をしていない。つまり、簡単に所有が許されると考えている。対象、クゥに自我らしき自我もなく、か弱い生物なので所有し、勝手な主
従関係に置いても問題ない。何故なら意思の疎通が出来無いのだから、常に主導権は人間側にあると考えているのだ。
しかし、「殺さねぇでくだせえ」とクゥが一言口走ったところで、その認識はズレを起こす。主導権が対象のクゥにもあった事が認識される。
「コウイチ、水をかけてやれ」「虫じゃないんだ、もっと精の付くものを食べさせてやれ」
そう判断し、行動を指示したのはコウイチではない。コウイチの父親なのである。
口が聞けた事により、クゥへの待遇は一気に改善される。水槽の中という、『飼う』象徴の場所から、コウイチの部屋へと移され、食事も母親自身が持ってくる、同居人の扱いへと変貌する。
「世話してるの結局あたしじゃないの。あーあ、食事代もバカにならないし。あんたの話じゃないわよ」
母親はスーパーに買い物に行き、犬に「あんたの食事代を異常と感じている訳ではない」と会話する。
これはつまり、飼って所有していると認識している犬と、同居、居候のクゥとの明らかな差である。主観が無い対象に対しては、人は責任を持たなければならないと感じているのだ。しかし、主観があればそれは責任の範疇ではない。
そしてこれは通常状態にある犬と、『異なるもの』であるクゥとの差でもある。
しかし、コウイチ一家の認識とは裏腹に、犬、おっさんも即ち『異なるもの』の一員であった。
おっさんは、『異なるもの』でありながら、『通常状態』であるため、その両者の橋渡しに尽力する。
クゥは元より、他の『異なるもの』にもおっさんは橋渡しをしようとしている。
元の飼い主が始まりである。元の飼い主は、おっさんを所有し、愛玩していたが、自身が『異なるもの』と見られたか、もしくはいじめられた結果
『異なるもの』へと変貌したのか、いじめられ、おっさんにそのフラストレーションの矛先を向ける。しかし、『異なるもの』との橋渡し役である以上、おっさ
んは暫く耐え続け、しかし最終的には耐えきれずに逃げる。
「コウイチは小さいときのアイツに良く似ていた」
そして、『異なるもの』になりつつあったコウイチの元へと転がり込む。
そしてもう一人が、キクチである。
キクチという女の子は両親が離婚し、家庭環境が最悪であったのが原因か、それとも宮沢賢治が好きだという夢見がちな所が気に障ったのか、『異なるもの』と認識される。
「あいつうざいよねー」「いなくなっちゃえばいいのに」
そう言われ続け、謂れのない差別を受ける。マジョリティである事のみを盾に、いじめを子供は行う。
そのキクチと、コウイチとの仲を取りなそうとおっさんは動いたりもする。常に『異なるもの』と橋渡しをしようとするキーパーソンがおっさんなのである。
話を戻そう。『異なるもの』のクゥは、遠野へ行きたいとパンフレットを見て言い出す。ここには自然があり、『異なるもの』が居る筈だと。
一家で行こうという母親に対し、父親は言う。
「いやー、この夏休みは仕事が微妙でな」
『異なるもの』と同居する事は許しても、仕事という通常状態を優先させている以上、通常状態にあり続けようと父親は判断し、結果コウイチを一人で行かせる。
『異なるもの』になるつもりは一切無いのである。
これが一度目の『異なるもの』へ転ずるか否かの判断であり、この時ははっきり『否』と下している。
果たして、遠野に『異なるもの』は居た。しかし、河童は居なかった。
「コウイチ、帰ぇろう」
座敷童に「ここ100年は見ていない」と告げられ、しょげかえり、帰ろうと言うクゥにコウイチは、まだ判らないという。しかしクゥは返す。
「おれたちは嘘は付かねぇ。嘘を付くのは人間だけだ」
『異なるもの』を保護し、共に歩めるのは結局、『異なるもの』だけと言うわけだ。
しかし、ここでコウイチ一家は二度目の『異なるもの』へと転ずるか否かという問いかけを受ける事になる。
写真週刊誌に写真を撮られ、一家の元に取材陣が押し寄せる。その前の時点で、インターネットには既に情報が流出しており、妹の幼稚園でも流布し始めている。
一家は既に『奇異なもの』として見られ始めていた。
そして、この週刊誌事件以降は、はっきりと集団からは『異なるもの』として見られている。
学校でコウイチは『異なるもの』として扱われ、疎外される。
そして奇妙な事に、コウイチ一家は自身達を、おっさんと同格の『異なるもの』と『通常状態』の橋渡し役だと考えている。とっくに集団からは『異なるもの』として見られていると言うのに、自覚がない。
会社からはお得意様の取引先だからという事で、コウイチの父親は無理矢理クゥを表に出す事を承諾され、次第に事態はエスカレートし、悪化の一途を辿る。
クゥは承諾する。これは別にコウイチの一家を特別扱いしている訳でも、橋渡しだと認識している訳でもない。
クゥにとっては、コウイチ一家が『異なるもの』人間である事に変わりはないからだ。コウイチ一家も、侍も、カメラを構えた人間も、クゥにとっては同格なのである。
ただ、恩義に報いる、ただそれだけである。
そして、テレビ出演を果たし、トラブルが起こる。
しかし、そのトラブルを解決できたのは、橋渡し役であるおっさんだけだった。
「なにやってやがる! 早くアイツを助けてやれ!」
おっさんは、コウイチ一家にそう言うが、コウイチ一家の動きは遅い。
「あの家のモンは、そんなに悪い奴等じゃねえぜ」「おれはこの家のモンに恩義があるんだ」そう言って慕っている筈のコウイチ一家は、すぐには動かないのである。
何故なら橋渡し役でも、『異なるもの』でもなく、自分たちは通常状態の人間だと認識しているからである。
そして、奔放するおっさんに対し、人は牙を剥く。想像力の欠如という甚大なる悪し行為を行う。コウイチ一家も動くが、遅い。
結果、おっさんは人によって悪し行為の犠牲となり、クゥは唯一の接点を失う。
父親の死の決定的な証拠、そしておっさんの死。二つの死を突き付けられ、絶望するクゥに手を差し伸べるのは、やはりコウイチ一家ではなく、『異なるもの』龍神だった。
死を諦めるクゥ。
そして、東京タワーの一角に佇むクゥに対し、手を差し伸べるのがコウイチ一家ではなく、消防隊というのも象徴的で、コウイチ一家はここで決定的にクゥと間接的な触れ合いしか出来ていない事を突き付けられる。
「おっさんは俺たちに出来無い事をやったんだ……」
コウイチの父親はそう言う。橋渡し役の退場は、自分たちが橋渡し役であると自負するコウイチ一家にとって、立場の再認識であり、そして認識の間違いを認める事にもなった。
そして、クゥと川へ一緒に行く事を提案するコウイチ一家。
現状をあるがまま受け入れる事が重要だと突然、『異なるもの』へと転ずる事を決意する。
「きっとその内慣れて、クゥちゃんももっと住みよくなるわ」
『異なるもの』と扱われるキクチもそう言う。
『異なるもの』の直感、『異なるもの』が通常へと少しずつ転じていくという考えである。
この時点で、決定的に省かれているコウイチは、『異なるもの』を助けるのは『異なるもの』という原則に従って、キクチと傷を嘗め合う。
しかし、子供達は『通常状態』にあるというマジョリティを盾に、囃す。
「うちの父ちゃんが言ってた。河童なんてのはエイリアン、みたいなモンだからどんな病原菌を持ってるか判ったもんじゃないって」
「カッパ菌!」
そう囃す子供を追い払おうと声を荒げるキクチに、子供はどつく事で応対する。倒れるキクチ。
許せないと掴みかかるコウイチ。
その状況を覆すのも、結局クゥの相撲であり、『異なるもの』を助けるのは『異なるもの』という原則は生きているのが判る。
しかし、此処で転機が訪れる。
『異なるもの』同士として仲良くしていた筈のキクチが、転校すると言い出すのだ。そればかりか、クゥの元へも『異なるもの』から手紙が届き、その元へと明日には発つ、そうコウイチ一家に告げる。
コウイチ一家は、『異なるもの』から拒否されるかのように、『通常状態』へと立ち戻る事を要求される。
「コウイチ、遠野の川でクゥがどんなに生き生きとしていたか教えてくれたろう。たまには川に行けるかもしれないが、それは常に行けるわけじゃないんだ」
そうコウイチの父親は告げ、囮役を買って出る。報道陣を追い払い、禊ぎを果たすためだ。
「私達、間違ってないわよね」
「今までが、おかしかったんだ」
そう言って、コウイチ一家は『異なるもの』では無くなっていく。
コウイチは、クゥを段ボールに入れ、キクチの家に持っていく。
「私、クゥちゃんみたく新しい所で頑張ってみる」
そう言い、『異なるもの』と扱われるのではなく、通常状態へと転ずる切掛けを作ろうとするキクチ。
「おれを拾ったのが、お前達で本当に良かった」
そうクゥは言うが、それは本心だったのだろうか。非常に疑問である。
そして、段ボールごしにコウイチは、クゥと別れる事になる。最後まで、彼らの触れ合いは間接的だった。
クゥは沖縄へ行き、神様に受け入れられ、『異なるもの』に助けられ、ここで暫く暮らすことにする。
自然に戻るのである。
3.居心地の悪さ
何とも言えず、居心地が悪い作品である。
作品構造的にはのび太の恐竜に極めて似ているので、対比して考えると何故居心地が悪いかが判るのだが、結局コウイチの父親が節目節目で決断を下
してしまっている。これが恐らく居心地の悪さの原因で、結局その決断にストーリーが左右されており、コウイチの決断はストーリーに影響を及ぼさない。
段ボールごし、リュックサックごしの関係も、結局真の理解者がおっさんだという事実も、『異なるもの』は元の住み処を追われるという着地点も、非常に居心地が悪い。
決断を下すのは、物もわからぬ子供でなければならない。想像力が欠如していようが、何も判っていなかろうが、どれだけ後悔しようが、自分の手で決断を下さなければならない。自分の手を汚し、痛みを覚え、二度とその痛みを起こさないよう尽力しなければならない。
しかし、決断したのはコウイチの父親であり、クゥなのである。
「おれはいつか死ぬ。父ちゃんや母ちゃんに会ったその時、おれは河童の生き方を忘れていちゃ申し訳が立たねぇ」
自分からクゥはその身を引く。コウイチは「何故止めないんだ」と父親に文句を言う。クゥを自ら引き留める訳ではないのだ。そして何だか曖昧なままに、うめぇうめぇと言い合い、写真を撮り、送り出す。
確かに、見事な演出だし、リアルである。だが、それ故に一歩も二歩も踏み出せない臆病な主人公、パンツすら脱がない主人公、心丸出しでぶつかり合えない主人公、何となく喧嘩で勝ってしまえる主人公に、軽く絶望してしまうのも事実である。
心に、お話に、薄皮が一枚張ってしまっている。それが残念でならない。しかし、それこそが今のリアルなのかもしれないと思うと、とてつもなく愕然とするのだ。
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