CLANNAD見た

10月 6th, 2007 by admin

 今乗りに乗っている京アニの最新作、CLANNADを見た。
 原作ゲームはやっちゃいないが。
 僕はどうにもkeyのゲームは合わなかった。というのも、キャラクタの造形が幼くて、だんだんイライラしてくるのと、作品テーマの方向性に疑問があったからである。
 というのも、基本的にはテーマとしては決まって、『奇跡』に頼る方向性で、奇跡は他力に頼った上で起きる物なので理由は必要ないとばっさり切っている。
 これは僕の勝手なエゴなのだが、奇跡とは起こるべくして起こる物だと思うのだ。
 それじゃあ奇跡じゃないじゃあないか、と言うかもしれないが、それなら富める者にさらに富を与える奇跡と、貧しき者に富を与える奇跡は等価であるはずだ。
 しかし、物語作品において前者のケースはまずあり得ない。カタルシスも無ければ教訓性も無いからだ。その時点で既に奇跡とは万人にとって等価ではない。既に何かを失った者、不公平な境遇に居る者だけが、奇跡を受ける権利を得ている。
 とは言え、その日暮らしを続け、酒に溺れた生活をしている人間が幾ら貧しかったとて、やはり物語作品においては奇跡は受けられない。
 結局、何かしらの努力、ないしはトリガーとなる行為をしなければ、奇跡は起きない。だから全ての奇跡は必然であるべきなのである。
 ところが、keyの作品はその決まり切った所作を省き、結果として奇跡が起きるだけである。別に何かしらの対価も、努力の証も、トリガーもある訳ではない。
 だから、本来起こりえない奇跡が何故か起こってしまっている。それに感動などどうして出来ようか。

 さて、本作だが、元の作品自体が18禁で無くなったのを受けてか、父親と母親が登場している。
 いわゆるエロゲーにおいて、親の存在は基本的に禁忌であり、特に父親に至っては娘と婚前交渉をするのが基本となる作品が多く、出すと話しが重くなるため基本的には出さない。
 母親は性的な対象になる場合があるため、出るのだが、基本的に主人公=プレイヤーを咎めない。
 という事は、この作品には父親と母親が出る必然性があるという事である。
 まあ家族愛とか言ってるし、きっと父親の過去があってどうのこうの、って構成なんじゃないのだろうか。
 キャラの造形も、相変わらず内気なリスカ少女が一人は居そうな構成となっていて、まあ順当じゃなかろうか。しかし、灰色の髪の女の子が格闘少女だったとは……。薄幸そうに窓辺で読書をして、サナトリウムが良く似合うタイプの女の子かと勝手に思っていた。いわゆる文系少女。キャラ造形からの類推は一切当てにならんなー。
 しかしギャグシーンは寒いなー。おそらく、字面だけだと面白いのだが、台詞にすると恐ろしくテンポが悪い。ベテランの声優が演じてあそこまで寒いってのは、ホンが悪いんだろうな。
 今まではKanonもAIRも原作をやって、力一杯否定してたので、今回は原作を知らない分まともに見れるのやもしれんなあ。まあ予想では安定はしない構成だろうな。だいたい、何人も女の子が居て攻略していくゲームを一本道にする構成は無理がある。

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