アニメじゃない

10月 30th, 2007 by admin

 ニコニコから消されるアニメのDVDは買うべきじゃないらしい。

http://d.hatena.ne.jp/pmoky/20071028/p1

 まあそれに対して、様々な反論が渦巻いていて、尚且つテレビ屋やら実際のスタッフやらがコメントを残している。

http://soulwarden.exblog.jp/6469132/

 たとえばこちらだとかね。

 まあいちいちごもっともなんだが、「何が悪いか」の原因の擦り付け合いという点では、ユーザ側と制作者サイドが一切譲らない平行線を辿っているように見える。

・どうして僕らが高いお金を出してDVDを買っても、スタッフに届かないんですか。

 まずここである。

 広告代理店やテレビ局が中抜きしまくっているからだよ! という説がユーザ側からは出ていて、(一部制作者サイドからも)それに対してテレビ屋
さんは、「そもそも市場規模が他の番組とは違うし、すっごく小さい規模だから、僕らは少ない予算で仕事してるだけなんだよ」と言う。

 まあ、このままだと、プロデューサーがラジオで発言したと言う、

「某代理店に、”何もしてないのに何でお金払わなきゃいけないんですか!?”って聞いたら、”既得権益です”って言い返された(笑)」

 という辺りの発言が有力視されて、今のところ声をあげない広告代理店が悪者になるんだろうね。

 という構図はこの際置いておいて、じゃあ何でまたこういう「アニメ業界は死ぬほど厳しいよ!」という話が事ある毎に僕らのホットTOPIXになるんだろう。

 恐らくは、発端の構造自体にある。

 そもそも、手塚先生がアトムをアニメ化する時、前例が無い中で手段を模索していった結果、

 ・人件費が馬鹿みたいにかかる

 ・一人じゃ作業量がとても追っつかない

 という問題にぶち当たったはず。そこで、手塚先生は予算を低く抑えるために、人件費を削り、作業を分担してアニメを作りました。その慣習が今でも根付いているんだよ。

 というのがアニメの発端だと思う。

 手塚先生は数多くの事を成し遂げたけど、その多大な功罪の中じゃ罪とされる方だと思います。

 で、この二つの打開案が現在に至る、

 ・人件費がべらぼうに安い

 ・殆どが外注さん。むしろ外国に頼まないと作業が進まない。

 という構図を産みだしている訳で。この辺までは基礎知識ですね。

 で、問題は「手塚先生はそりゃ他に著作権はあったから良いかもしれないけど、フツーのスタッフはどうするのさ」って問題になる。

 たとえば僕らが良く知ってる例をとると、マンガ業界だと、著作権とか他の権利だとかが、マンガ家に振られる。出版社も、アニメ化した人も、マンガ家もそれなりに現状で文句は無いはずです。凄く巨額に及ぶ利権を持った人間も数少ないけれど居るわけだし。

 これが出来る理由は、

 ・マンガ家は分業じゃなくて、大抵一人だから

 というのが前提条件な訳です。

 アニメの場合は分業化が進んでいる都合上、一個の作品を作るのに莫大な人員が絡んでくる訳で、それをポンと誰かに渡すというのがちょっと厳しい
上に、それが一般的な慣習になっていない。だからスタッフは「自分の著作物だ」と言い張る事が出来ないし、権利者団体やテレビ屋、広告代理店なんかに強く
出る事も出来ない。

 まあたまーに著作権を総監督が持っている場合もあるみたいですけど、現状を構造から打破できてる様には思えないし、巨大利権に繋がってる風もありません。

 でもこれをね、20年経っても未だに作られ続けているあのロボットアニメの監督とかが利権を握ってたと考えるとちょっと影響を考えてしまいますねえ。

 だってさ、もし監督が玩具屋やテレビ屋相手に「お前らに商売をさせてやる」という姿勢で仕事出来たら、払われる給料だってもうちょっと強く出ら
れるんじゃないの? 予算が潤沢じゃないのは重々承知だけれど、現状よりはもうちょいどっちにお金を引っ張るかの話になった時に、構造こそ打破できなくて
も比率に口出す程度は出来るんじゃないの? とか思ったりもする訳です。強く出られないって時点で交渉の席に座る事も出来ない現状よりはマシだよね。

 で、もう一点はやっぱりスタッフの冷遇。

 会社によっては社員待遇で年金とか福利厚生とかを受けさせてくれるって所もあるようだけれど、大半は「所属」扱いで社員待遇じゃない筈だよね。

 えー、この辺は恐らく法的なものも絡むと思うんだけど、社員で雇うとお金がかかるし、恐らく残業だとかの概念も発生するからだと思うんだよね。

 でも他の一部の会社はどうも社員待遇らしいし、それをアニメータさんが確実に受けられる環境ってのはどうしても最低限の義務の様な気がしますよ。

 まあ凄いお金が発生するとは思うけれどね、そこで人が流れないとウソだよね。社員待遇にしてくれるならそっち と尻軽に動かないと会社も考えないよね。

 そこをね、「ああいう業界に居る時点で薄給に耐えねばならん」「世捨て人じゃなきゃつとまらん」みたいな、精神論じみた「金は汚いよ!」みたいな問題にすり替えてるのも恐ろしく問題なんじゃないかなと思う訳でさ。

 だってお金無いと困るよ? おまんま喰わないとクリエイトどころの話じゃないですよ。忙しいは正義みたいな美学も置いておいて、その辺の環境配備をしないと問題外なんじゃないですかねえ。

 ま、簡単な話DVDを買う買わないで問題はなーんにも解決しないと思うんだよね。結局、構造自体に問題があるのだから、そこをどうやってクリアしていくのかを明確にしていかないと、何も変わらんのだよね。

 そして僕らに出来る事ではないのですよそれは。アニメのプロデューサーが広告代理店を悪者にすれば問題が解決する訳じゃない。ニコ動ごときの市
場規模でなんかやっててもしょうがない。大体、妖のDVDがニコ動で300万円出た! って言ってるみたいだけれど、300万って個人の年収以下だぜ? 
人一人雇えない程度の吹けば飛ぶよな微細な金額なんだぜ? これが3000万、3億、30億となれば話は別だけど、今のところあんまり誰の財布も暖かくで
きてないよね。同様に冷たくも出来てない。

 結局ね、もう最初にも書いたけれど制作者サイドとユーザがお互いに擦り付け合いをやっているだけに過ぎない訳で。ユーザはタダで見てます。こ
れは問題外に悪いし、それを見て放置して、構造的な見直しをしないアニメ業界人も片腹痛い。ここで言う構造的な見直してーのは、広告代理店やらテレビ屋や
らから金を毟れってんじゃなく、自分たちの立ち位置の改善ね。皆さん自分の頭の上のハエを追うべきなんですよ。ね。だから僕は会社に行くよ。

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メガ牛丼

10月 25th, 2007 by admin

 まったくの茶色である。

 牛丼とは、色のコントラストから成っている。それは良く火が通り、特製のつゆがかけられた牛肉、飴色になるまで煮られた玉葱の「茶色」、理論上
幾らでも取って良く、辛みが味わいにもコントラストを与える紅生姜の「赤色」そして、銀シャリという俗表現すら存在する、日本を代表する甘みを帯び、何に
おいても欠かす事の出来ないお米の「白色」という三色だ。

 本来の牛丼とは、この三色が存在しなければ成立しえない物だ。

 少しでもつゆが多すぎれば、白い米は姿を隠し、火の通りが十分でなければ牛の色は色褪せる。紅生姜が欠ければ、それは画竜点睛を欠くと言っても
良いほど、味からメリハリが消えてしまう。そう、この三色こそは牛丼が牛丼であるためのバロメータ。言うなれば牛丼の存在証明である。

 しかしながらこのメガ牛丼、のっけから茶色である。

 箸で茶色の肉の層を啄ばむも、向こうにちらりとも白米は姿を現さない。丼から溢れ落ちんばかりにこんもりと盛られた肉からは、些か狂気すら漂う
ほどの容赦のなさである。湯気を立てる態は威風堂々としており、いつもならば我先にと紅生姜をぱらりと乗せ、すっと白い米のカンバスに箸を突き立てるのだ
が、何とその突き立てる先が無いのである。

 言うなれば、岩壁はつるりとガラスの様な態であり、其処にピックを打ち込むも、凹凸を掴むも無謀という最中にて、ロッククライミングをやろうと意気込むが如くの愚行。湯気の向こうは茶色い地獄絵図である。

 ごくりと生唾を飲み込み、いつもよりかなり多くの紅生姜を乗せ、無理な二色コントラストで再度牛丼と対峙する。

 そして、茶色い岩壁へと箸を突き立てた。箸はするりと肉をすり抜け米の層へ。否、無理にでも牛丼の丼たる証を「米」に求めようとした、無謀にも似たやせ我慢がそうさせたのだ。

 箸で抄い、口に搬ぶ。

 口中に広がる獣臭。これは牛丼の味ではない。肉、そのものでしか無い。

 口中に伝わる味も、そして箸で抄った範囲も、比率が肉に押しのけられていた。尚且つ無惨にも、米は肉の下で完全に肉汁ともつゆとも知れぬ何かに塗りつぶされ、完全にその白さを失っていた。

 二口。三口と飲み込む。

 肉に容赦など感じられない。

 その態は焼き肉に例えられよう。つまり、炭火でぱちぱちと焼かれている焼き肉は、自分の好むと好まざるを抜きにして、時間と共に食べねばなら
ぬ。時が過ぎれば肉は焦げ、時が早ければ肉は食えぬ。哀れ、食を求めに来て、食にその手綱を握られているのである。まさに、焼き肉は肉によって牛耳られた
食と人との立ち位置の戦い。そして常に人は負けるのである。

 そう、今まさに肉は人に完全な勝利を齎していた。一口ごとに肉が嫌いになる。

 肉汁と脂とでぎとぎとと舌にまとわりつく米は、既に日本の食卓に欠かすことの出来ぬ主役ではない。既に場末で饐えた匂いを発する固めるテンプルと大差あるまい。

 違う所は喰えぬか喰えるかだけである。

 だが、それでも口は進む。これは時間経過で食べられなくなる類いの食物。経験がそれを如実に語る。故に、肉に敗北しつつ、米に絶望しつつも口を動かす。

 そして、更なる絶望が首を覗かせた。

 あれだけあった肉が、何時の間にか無くなっている。

 いつもならば、確実に比率など間違えず、肉を残す計算など鼻歌交じりでやってのけようというものだが、何と比率を間違えたのである。

 それは肉の悪意から遁れようとする私の迷いだったのか。眼前の肉を片付ければ、白い米があるだろうとでも思っていたのか。

 しかしそこで待ち受けていたもの、それは、全てのつゆと肉汁、そして大量の脂を吸いに吸った、悪逆そのものと言って良いほどの米だった物であった。

 戦慄である。

 まさにキングオブメタボリックフード。総カロリー1200kcalは伊達じゃないと声高に告げ、尚且つその悪魔の様な脂肪分を最後に残したのである。

 あの雪崩れのような肉が、まだ天使に見えるほどの歯触り、味、そして食感の悪さ。人噛みする毎に食肉特有の臭みを発したあの肉に頬摺りしたくなるほどに、腹回りに緊張が走る。肥える事への恐怖が、ありありと額に浮かぶ。

 だが、地獄の釜は開けられたのだ。それを喰わねば、代金に見合わぬ。

 無心になり、喰らう。喰らい、水を飲む。繰り返しである。

 二杯の水が空になった頃、丼は底を全てこちらに見せ、人類が辛くも勝利した事を証明してみせたのだった。

 牛丼暫く喰いたくない。

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ブラックラグーン 7巻

10月 21st, 2007 by admin

 ターミネーターメイド再登場編。
 今迄それなりに鮮度を保っていられたのは、手を変え品を変え、他ジャンルからの持ち込みが多かったのもあると思う。ヘンゼルとグレーテルのゴシックホラー調、日本編の任侠もの、テロにも首をつっこみ、ラヴコメもどきにもクチバシをつっこむ。
 そう言った姿勢も、一話である程度スタイルが完成し、それを少しずつ見え方を変えているに過ぎない。
 まだ、各登場人物の内面を深く掘り下げるという所にまで到達していないので、書いていける余地はあるが、もうそろそろ終わりを考える時期に差し掛かっているのは間違いあるまい。美味しい間に料理は食べ終わるのがマナーだし、それが料理人冥利に尽きるというものだろう。食い飽き、それでも料理を作らせるのはお互いにとって幸せではない。
 さて、そんな経緯もあってか、今回はとびきりにデカい事件だ。今まではせいぜいがバラライカと三合会だけで済んでいた話が、ヘンゼルとグレーテル編以来にロアナプラ自体を揺るがす程のとびっきりの大きい話にふくれ上がっている。
 しかも、エダのバックに控えるCIAまで嚼んでくるという辺り、今回の花火はどうにもとびきりデカいらしい。その所為か、イヤに前置きが長く、メイド二号が暴れ回っていたのが子供の遊びに見えるほどに、内外含めて動きが激しい。
 これは言ってしまえば、もうそろそろこのお話自体に幕を引く時期になってきている気がする。
 それは、ロックに居場所が無くなってしまった事も大きいだろう。日本編前なら、ロックは尻を捲くって日本に逃げ込めば良かった。しかし、潜水艦編でレヴィに啖呵を切り、認められた上にだ、日本編ではあのレヴィに「あたしはお前の銃だ」とまで言わせている。そして、日本編では自分自身の曾ての姿だった、あの女子高生を救えず、夕闇の住人へ完全に足を踏み入れた。
 日本でもお尋ね者となったロックに、既に帰る場所はない。もう戻れないのだ。
 そして、レヴィに自身の位置を尋ねられる。
「──……なあ、あんたは、どう思ってるんだ? ……鉄火場に付き合うにゃ、それなりの儀式が必要だってことさ。
 あたしはあんたの保母さんでも、保護観察官でもないんだ。
 ……なら───
 どういう名目で、あんたの無茶に付き合えばいいのか、てェ話だよ」
 今までは同じ職場の仲間、という名目で連れ立っていたロックとレヴィだったが、レヴィからロックに、「お前の立ち位置を決めろ」と問われている。
 これにどうロックが答えるかがこの巻の目玉になっている。
 一体、どうこのお話に決着が付くのか。もうそろそろ、その見え始めたEndの文字を見据え始めてもおかしくないだろう。

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‘初音ミクの情報’をごみ箱に移しますか?

10月 19th, 2007 by admin

 まあ、良くある話だが、人工的に真実を捏造し、作り出すにはどうすれば良いのだろうか。答えは簡単で、本当の真実を知っている人間と痕跡を全て消し、同じような真実を上書き、もしくは何もしなければいい。

記録メディアが無かった時代は特に、絶対の真実を伝える物は口伝しか存在しなかった。故に人は真実を伝えるには文字しかないと考え、書にし伝えた。テープレコーダーが開発されれば、ビデオテープが開発されれば、それぞれに真実を託し、嘘偽りない事を証明する物として、人はそれを扱った。

秦の始皇帝は言論統制として、焚書坑儒を行った。記録メディアとしての書を焼き払い、思想を何もかも消しても、何千年経った今でも焚書坑儒は、権力下においての究極の言論統制として、象徴的な出来事になっている。

そう、数千年前に起き、誰も証明する人間が居なくとも、思想を完全に文字通り灰と化した出来事が、皮肉な事に真実として伝え聞かれているのである。まあ、一種の恐怖政治を強いる物でもあったので、恐怖とセットで流布していたとしてもおかしくはないが、何にせよ未だに真実とされている事は特筆すべきだ。

他にも、権力下において言論を封じた例は枚挙に暇がない。だが、逆に言えばそれは、言論統制を行ったという事実が認識され、封じ切れていない事を示している。

つまり、余程の事がない限り、言論を統制し、思想を強制したという汚名そのものを、言論統制で覆い隠す事は出来ない。人の口に戸を立てても、その行為自体を正当化する術は無いのだ。

そして、愚かにもこの現代に、そんな馬鹿げた真似をして自分の意見を通そうと考える、不届き千万な何らかの意志がある。

実に唾棄すべき思考だし、仮に偶然を装った出来事だとて、偶然は連鎖する物ではない。システムは確かにオートマティックに動く物だが、それを動かすのは人間の意志であり、意志をトリガーにせねばシステムはその意志を反映したりはすまい。

インターネットの発祥。それは、核攻撃によるデータの永久的な散逸を防ぐためだった。ネットワーク越しにデータのバックアップを行い、たとえ一カ所がダメでも、数カ所にバックアップがあれば、まだ戦える。そのためにネットワークが築かれた。今、軍がその設計思考で作った物を、多数の人間が自己の意志を介在させ、ネット上のサーバに焼き付け、そしてそれを殆ど制約なく参照している。

情報の散逸を防ぐために作られた物を、言論を封ずる道具に用いようなど片腹痛い話で、実際に誰かの意志が介在したのではないか? という疑惑を多数の人間がデータにし、サーバに焼き付けている。

愚かな行為はたとえ原因を起こした物が何であれ、事実として語り継がれるだろう。人の口に戸を立て、たとえ手の及ぶ範囲全てを覆い隠しても、既に起こった人間の意志その物を打ち消すような事は不可能だ。

それが判らないような人間は、メディアに携わるべきじゃない。まったく、情報が可哀想だ。

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初音ミクと安心メソッド

10月 17th, 2007 by admin

 判らない事を放置しておくのは、どうにも気持ちの悪い事だ。だから人は無理矢理にでも理解をしようとする。

 件の初音ミクのニュース動画を見て、アッコにおまかせのメインとなる人間、和田アキ子は「はっきり言わせていただく、わかりません」と言っていた。

 つまりだ、50またぎの既に感性の古い人間が、技術的な新しさやら、世間の動向やらを知らずに、突然のムーブメントに対してコメントを残せる余
地は、「わかりません」が精一杯なのだ。そして、あの映像は「わからない」という結論を導き出すだけの映像にしか過ぎない。オタクを叩く意図? 違うの
だ。あの映像は、オタクは奇異で、我々とは違う文化圏の人間なんです、判らないでしょう? とブラウン管の向こうのマジョリティに向けて投げられた言葉で
しかない。

 しかも、それは初音ミクという非常に革新的なソフト、そしてムーブメントに対して本来即座に情報をキャッチしなければならない筈のマスコミと
いうメディアが、一切理解をしていないという悲しい現実でもある。マスコミだけが映像を発信し、マスコミに持ち込まねば多くに情報を流布できない。そう
言った状況に胡坐をかいて、これからもそういうあり方をしようと思うのならば、明らかに後発で乗り込んできた上に、今回のように理解をしていない見方など
問題外だろう。一介の新参ブロガーですらもあんな無理解さを示さない。

 たとえ、実際にはきちんと理解していて、世論誘導のためにああいった事をしたとしても、いくら何でも器が小さすぎる。第一、そう言った事をせ
ずとも、きちんと技術的側面から説明し、それがネット内で爆発的なムーブメントを起こした経緯をきちんと説明すればいい。たったそれだけでいい。そうすれ
ば火種を生む事無く、話題にも一切上がらず、僅か3分弱の特集はニコニコに上げられ、殆ど誰も見ずに一週間以内に削除されるだけに留まっただろう。

 そう、普通に放送しただけでは、マスコミだけが映像を発信し、マスコミに持ち込まねば多くに情報を流布できない筈のマスコミが、何の印象も残
せないというのもまた事実なのである。第一、例の特集の冒頭は、「視聴者は知らない。しかし独自の情報網を持っている人間は、既に周知の事実である」とい
う切り口から始まる。

 その時点でマスコミは遅れを取っていて、尚且つその情報がマスコミによらず、既に多数に流布しているという時点で、マスコミに介入の余地はな
い。行き渡るべき人間には既に行き渡り、行き渡る必要の無い人間には行き渡らない。「わからない」なんてメソッドで判ったつもりを装う事しか出来ない程度
の、精神的動脈硬化を起こした人間に、無理矢理ご意見番をやって頂く必要など全くない。

 ただ、ブラウン管の向こうのマジョリティは、「なあにこれ、全然わからないわ」と若年層に聞き、若年層はしたり顔で答えるだろう。その点では、視聴者の意見を代弁しているので、或る意味ではぎりぎりの意味を保ってはいる。

 しかしながら、別にそんな必要は全くない。第一、既に初音ミクなんざ我々にゃあ古い話だろう? 知らない奴に説明する程の事もない。ネット上の
情報など、三日経てば賞味期限が切れる。既に発売から何ヶ月も経ったソフトの存在など、それだけでは一切意味がない。付加価値を付けた上で情報を提供する
のが集金能力を有したマスコミの義務である。あんな手前味噌な構成で、ギャラもあるんだかないんだか判らない程度の小規模な特集で、予算のある、しかもお
昼時の番組がああいう放送をするのは怠慢以外の何者でもない。情報という物に携る者が、それがどのように流布し、どのような物なのかを第三者に説明出来な
い程度の構成の物を作ること自体が問題外だ。情けない。

 これだけの悪印象を与える事がネット文化が栄えた現状に対して、マスコミの出来る最大限の抵抗ですと言うのならば納得はするのだが、この反応を見る限りだと誰も誘導すらされていない。その程度の技術すら無い。

 いやはや、安心したのはマスコミのお里が知れた、一視聴者たる我々の方なのかもしれない。ご立派ですね。

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コミュコミュうっせえんだよ

10月 14th, 2007 by admin

 非コミュという言葉が溢れている。
 まあ、書いて字の通り、コミュニケーション能力が無いですよという意味だが、よくよく考えれば、一体コミュニケーション能力ってーのは何だよって話になる。
 ところで僕が最近どうにも気になるのは、人は褒められたい、一番になりたいという欲求が強い動物のようだ。
 若いコミュニティだと、その欲求は顕著であり、僕はとみに実感する。まあ、偏にそれは、『欲求不満』として実感するのだが。
 どういう事かというと、学校てのは指標がいっぱいある。同じ年齢で大体同じ地域に住んでおり、小学校こそ制限は無いが、中学校以降になるとその個人が持ち得た能力に応じた所に選り分けられる。
 つまり、集団として考えれば、似通った人間が集まる事になる訳だ。
 そして、その価値観の物差しは、全国共通で『勉強』になる。
 勉強が出来るかどうかなんて事に、僕は意味がないと思っている。そりゃ、勉強が出来る人間の方が話していて面白い人が多かったりする。そういう傾向はある。まあそれは単純な理由で、勉強が出来る=記憶力がそれなりにある って事であり、記憶力や理解力を前提とした、要は前提条件としてこっちがいっぱい何かを掲示して、理解を督さずとも共感可能であり、その上での話題をやりとり出来る確率が高いって事だ。
 大体、文字読めないとかいう段階で既に共感不可能な訳で、そういう最低限のメソッドとして勉強がある事に僕は何等異存がない。嫌いだけれどね。
 さて、僕の個人的な価値観は脇に置いて、勉強という物差しで僕等は選り分けられ、そしてその内個々人の能力に合った職業に就いて、自分の力で金を稼いでいく事になる。
 良くも悪くもその過程においては勉強が全ての指標になる。勉強が出来る=頭が良い ので、選択肢が広くなる。まあ女の子にモテる確率も高くなるだろう。何故って将来食い扶持に困らない可能性が高い有望株だって事だからである。
 スポーツだ、ツラだ、センスだと他にも条件があり、勝手にその指標を飾り立てるが、結局経済力の無い人間より、ある人間の方が価値がある。それは間違いない。そして働く=経済に直結した時、他の諸要素はどんどん価値を失う。
 生きていくためにはお金が必要で、豊かな生活をしていくにもお金が必要で、結婚式を豪華にするにもお金が必要で、子供を作るにも産むにもお金が必要で、子供に豊かな教育を与えるにもお金が必要で、センスの良い服を買うにも、車を新車にするのにも、エステに通うのにも、病気をした時に病院に行くのにも、そして死ぬ事にすら、お金は必要である。
 そして、それは多ければ多いほど良い。間違いない。じゃあ非常に簡単である。お金がある奴とくっつけば良いのだ。明確な答えだ。
 という訳で、勉強の指標は何時の間にか、お金の指標へと変わってしまう。それは構わない。それは一切問題ないだろう。
 じゃあ、お金を稼ぐために働いている人達は、何を指標にすれば良いのかって事である。
 答えは簡単。仕事が出来る人、である。
 実はこの仕事が出来る人というのがくせ者だと僕は感じている。大体、仕事が出来るって言葉が意味不明だ。I can work.なんじゃそりゃって話だ。仕事が上手に出来るって事でも、仕事が早いって事でも、仕事を理解するのが早いって訳でも、相手先から契約を取ってくる率が高いって事でも、接客応対が完璧だって事でも、難しいプレゼンでも確実に納得させられるって事でも、残業時間がとても多いって事でもない。
 そして、それらのいずれでもある。つまり、仕事が出来るっていう指標は、恐ろしく曖昧で、個々人によってトンデもなくブレが激しいって事だ。
 そりゃあ、数学のテストで95点取ったら、凄いって話になる。全国共通で。まあ問題の出来、不出来はあるかもしれないが、大体は凄い。それは共通の価値観なのだ。
 でも、「僕はこの店の、山田くんよりも契約率が上で、5歳年上の高橋さんよりも接客が上手くて、後藤さんよりは時給が高くありません」って言われて、全国共通で意味が通るか? 通らないよ。間違いなく。
 まあ、全国共通で指標になるものもある。それは残業時間と時給だ。あとは年収。
 でも、時給換算なんて普通はしないので、(まあ職業にもよるけど)そうなると大体、残業時間になる。つまり残業時間=会社への貢献度となる訳だ。
 アホか、と僕は思う。そんなもの指標にしてどうする。
 まあもっと言うと、「忙しい」と言いたがる。忙しいってのがどんだけ凄いのかは知らん。凄く主観的だものそれ。
 睡眠時間が何時間、残業時間が何時間、そして年収が何万円。
 あまりにも曖昧で、そしてそれでいて全員が全員、その価値観に従っている。異常だ。
 まあ、僕はまだ関係ないが、もうそろそろすると「肩書き」とか言うのも指標になるのかもしれない。
 整理しようか。
 僕等は学校に入ると、勉強を指標に据えられる。内外共に。そして社会に出ると、年収が指標になる。公私共に。でも、会社内では、残業時間とか肩書きとか、仕事が出来るとか意味不明で曖昧な価値観が支配する。
 この理由は簡単に言えば、「年齢が一緒じゃないから」だ。スタートラインが一緒じゃないからだ。だからそういう曖昧な価値観に頼らざるを得ない。そして、その超主観的、超曖昧な指標で人を判断する。
 で、その曖昧な指標の中に、コミュニケーションという奴がある。
 これって超曖昧な指標だと僕は思う。何せ、他人と意思の疎通が図れるかどうかだぜ。そんなの、他人がどんな奴かに強く依存する。そして、結果として「非コミュ」なんだ俺と自戒、自嘲する訳である。
 僕は、色々な人と一応話はする。すると、相手がどんなジャンルに強くて、どこまでの深度で、どういう話題なら気持ちよく相手が話すかを探る。で、その相手が気持ちよく話を出来る話にどうにか持って行こうとする。
 つまり、僕の場合はお膳立てをしてやる。で、大体のジャンルの話は出来るから、蓄積部分から僕も話をする。
 これって凄く相手に依存する訳だ。先にも書いたが、『前提条件としてこっちがいっぱい何かを掲示して、理解を督さずとも共感可能』じゃないと、話なんかこっちはしても楽しくない。得る物が皆無だ。ひたすらに相手に声を枯らさせるのに終始する。
 で、その際相手に気持ちよく話をさせる際は、自分が偉い、自分が凄いと思っている事を話させる。人は褒められたい生き物だから。一番になりたい生き物なのだから。で、僕はその際相手を気持ちよくさせるために、へりくだる。相手がたとえどんなに愚かで、褒められたいという欲求を満たすためだけの酷い話を振ってきても、すっとへりくだってやる。
 それが、コミュニケーションとか言う奴なんだろう? 円滑とか言う人間関係を演出するのに必要なんだろう?
 つまり、たった二人でさえも人は指標を決めたがり、その指標の上で優位に立たないと気に入らない。その指標は大抵曖昧だ。で、コミュニケーションとか言うのを実現すると、その指標は大抵下がる。
 なんだそりゃ、である。あまりにもイライラする事実だ。パラメータを上げたら一方が下がるって訳だ。しかも大抵、こっちが気を遣っている事に相手は気付かない。『前提条件としてこっちがいっぱい何かを掲示して、理解を督さずとも共感可能』な状態じゃないからだ。つまり、鈍感で自分の好きな事ばっかり喋ってるアホが、指標をどんどん上げるという事だ。何じゃそりゃ。
 なあ、コミュコミュうるさい人は、一体何が気に入らんのだ。パラメータが全部マックスじゃないと気に入らん部類の人なのか?
 そうじゃない筈だ。つまり、へりくだったり、相手が何を言うかを先読みして、話を振るのが嫌だからだ。
 コミュコミュうっせえんだよ。コミュコミュ言う時点で、コミュニケーションが出来てるって事が前提の、上から目線なんだぜ。ちなみに僕はコミュニケーション能力の欄が悪いですよ。僕から見るともっと最低の人間に指標を付けられてね。
 曖昧な指標ってのには反吐が出るぜ、まったく。

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“Libera Me” From Hell

10月 13th, 2007 by admin

 うーむ。

 ”Libera Me” From Hellは、ラップは漢の魂だ! という曲のバリエーションが四曲あり、その最後のバリエーションになります、要はグレンラガン26話のカミナとシモンの再会シーンでかかる曲です。

 サントラもざっと聴きましたけど、やっぱりこの1シーンのために見てたんじゃねえかって気がしてならん。

 ビルドゥングスロマンは、マジにロマンな訳です。何故か、一流とされる作家の一流とされる作品であっても、意外と失敗してたりする。

 最近の作品にゃあ、特に見かける事は少なくなりました。理由は簡単、引っ張る人と、引っ張られる人が必要で、今は男が男に引っ張られる事に魅力が
感じられないからです。その代わりにどうも、女の子に守られたいってのが出てきたみたい。か弱い少女に守られたいって願望は、00年代少年の願望のようで
すが、はてさて、それはビルドゥングスロマンたりえるのかしら。

 まあ、そこは最近の作品でも心得ているようで、キミに守られる僕が、キミを守る僕に最後はなっていくのが最近の良い作品とされる作品の条件ですねえ。

 まあ、ちょっと考えるとね、キミに守られる僕は母性なんじゃねえの? とか、キミを守る僕も支配欲なんじゃねえの? とか言う事になりますが、やっぱジェンダーもあるのかなあ、と僕は思ってます。

 男女同権て奴。守られる僕と、守るキミが等価なんですが、そこからの脱却は「僕は男なんだな」だけでは弱い。小学校高学年から中学生くらいは、女
の子の方が成長が早いのですが、そこから男の子の身長の方がぐんぐん伸びる。そのぐんぐん伸びる辺りで、ついでに立場が逆転する、くらいの自然さじゃない
と、最近の意識には合わないんじゃないですかねえ。性差だけが重要じゃない、自然な流れが重要という。

 でもね、キミを守る僕もいつか飽きられる時が来ますよ。

 そして、僕はキミを守る僕よりも、アニキを超えるダチ公に惹かれる。

 偶像なんすよ、確かに。言葉も空虚。足下も覚束無い、ただ胸張ってありもしない自信を盾に、デタラメを言うだけ。

 でも、それ判ってるんだよなあ。

「忘れたのか。俺の無茶に中身をくれたのはお前なんだ。俺の薦めに中身をくれたのは、お前なんだよ」

セリフに頼りすぎる、と言われていましたが、僕はこのセリフは好きなんです。人間的な弱さが見える。実はカミナも人の子だったけれども、精一杯胸を張っていたのだなあと思える。

 僕は虚栄を嫌います。虚栄には裏付けが無いから。虚栄も虚勢も、格好が悪いから。

 でもまあ、かっこわるくても良いんだよなあ。現実に虚勢張る奴は向こう臑蹴り飛ばしてやりたくなりますが。

 それにしてもなんだか、グレンラガンがなつかしいな。

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踊れ。ステップが判らなければ隣をなぞれ。何の踊りかなんて、考えるな。

10月 11th, 2007 by admin

http://semiprivate.cool.ne.jp/blog/archives/000711.html

 大変考えさせられた。
 僕が主に考えさせられたのは、
【2・中毒患者】の節である。
 ここで書いてある事はことごとく合っている。消費者が欲しがっているのは、面白さではない。これは真理だ。何故か? それは面白さは苦痛を伴うからである。書くまでも無く、面白いとは苦痛の果てにある物なのだ。

「頭文字Dとかあファンだけど、文字が多いじゃない?だからマンガでは読まないの」

 これこそが象徴している。本来、面白さを求め、逃避の為に使用するマンガ、10分で読めるマンガでさえも苦痛へと変わる。右から左へ何の問題も無く抜け、直感だけで判断し、それを摂取する。その過程、その道程がおっそろしく簡単なマンガでさえも、文字数が多い事だけで敬遠されてしまう。これが消費者の自由な声。消費者の本来の声である。
 消費者は勝手だ。勝手な事をのべつ幕なしに言う。しかし、それが消費者の権利である。
 じゃあ、それに対処するのに、一体作る側はどうすればいいのか。
 閾値をどれだけ下げても、マンガという極端に閾値の少ないメディアでさえも忌避する相手に、どうやって買わせるのか。
 簡単な事だ。知らせろ。読まずに内容を判らせれば良い。読む前に中身を理解できていれば、読む必要はない。文字が多い? 読みづらい? ナンセンス! 中身が読む前から判ってりゃあ、そんなのはどうという事も無い。読んで貰う事が目的? ナンセンス! 買わせる事が究極的な目的である。少なくとも資本主義においては。
 だから、口コミは売れるのだ。何故って、勝手な人が勝手な判断と勝手な切り口で、でたらめを言って回ってくれるからだ。中身がどうあれ、糊塗し、価値を決めつけ、意図もしないあり方を想像し、タダでブログで書き散らす。
 ネタバレを嫌うなかれ! ネタバレを嫌う権利を有するのは買った人間のみだ。それ以外は豚以下だ。ネタバレを知っていても、豚以下だ。なに? ネタバレを知らないように中身を知りたいだと? 買えばいいじゃねえか。それだけだ。
 つまり、作品にとって重要なのは、知られる事だ。それに尽きる。逆に知られない作品は売れない。話題にあがらない作品は売れない。興味を引かない作品は売れない。選択肢も無く、誰にも知られずただ消えるだけだ。
 作者が「なんかいいよね」を禁止して、何が面白いかを取捨選択した程度では、焼け石に水。売れない。
 何故って消費者という仮想敵は強大だからだ。読まずにつまらないと決めつけ、ちょっと読んでも「読みたくない」とつまらない事にし、たとえ読み切っても「意味がわからなかった」とつまらかった事に出来る。何でも有りのバーリトゥードでも斯くやとばかりのインチキぶりだ。だが、作者に消費者を選ぶ権利など無い。小指の先ほどにも無い。だって消費者は金出すんだぜ。どうやって手に入れたか判らないが、金出すんだぜ。心血灌いで得た清い金か、博奕で稼いだ泡銭かは判らないが、金を気前よく出すんだぜ。
 読む前の作品の出来なんざ、さっぱり判らないんだぜ! たとえ他人から聞いていても、その他人がどれだけ信用できたとて、確率論の問題だ、判ったもんじゃない。でも博奕と思って金出す訳だ。
 で、そのときの理由を考えてください。僕等はオタクだよね、だから監督で見たり、作者で見たりする。しかし、大多数がそうか? 違うよね。そう、隣を見て踊るんだよ。隣の踊りのステップを見るんだよ。
 携帯かもしれない。メールかも。SNSかも。ブログかも。新聞かも。雑誌かも。テレビかも。自分が信じたメディアを信用し、自分に近いとメディアを理解し、踊るんだよ。
 何の踊りかなんて考えるかね? ねえ、お金さえ払えば良い踊りに、どんな踊りかなんて意味が、果して重要かね?
 重要じゃない。ちいっとも重要じゃない。「なんかいいよね」で良いんだよ! それを禁止すべきなのはほんの一握りの矜持を心の礎において、たった一人で群衆相手に愚行を犯そうと考える人間だけでいい。
 踊るしか能のない人間がそんな物で格好付けようなんざ、ナンセンスどころか滑稽だ。隣にステップをきちんと見ろよ。自分の頭の上のハエを追えよ。
 さあ踊ろうぜ、死ぬまで続くこの醜い踊りをよ。
 踊る以外に何か見せ物が出来るなら別だが、如何せん、踊る以外に何か出来る奴なんて少なくとも、こんな日記を読んじゃ居ないだろうぜ。出来るなら、心のままに従えばいい。

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スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ

10月 8th, 2007 by admin

 あのねー。

 僕ももう随分長い事、作品見たら文書で感想だの考察だのを知ったかして書いてるんで、読んだり見たりしている最中に大体頭の中で何書くか考えるんですよ。

 まあフツーそうだよね。

 ところがこの作品は、一切書くべき事が見つからなかった。一切。

 ざっと書く事は書けますよそりゃ。

 伊勢谷友介がもんの凄くかっこいいんです。もう衣装と相まってやばいくらいかっこいい。冒頭の源氏と平家が相対す場面とかの格好良さは、尋常じゃないです。あの1シーンだけはガチで異常にかっこいい。絵になるなあ、と思います。彼を見るだけでも十分かもしれない。

 それだけです。

 というのも、作品構造は完璧に用心棒なんですが、僕用心棒がものっすごい好きなんですよ。(ごめんね、僕黒沢作品の批評とか全然知らないから怒ら
ないでね)理由としては、無駄が全然無いからです。僅か数件の家のセットだけで、完璧に世界観から何から全部描ききっている。それでいて面白い。

 謂わば、閉鎖劇? って言うんでしたっけ。舞台が全然動かない中で話を動かす手法。それを貫徹している訳です。でも無理にやってない。必然性の中で動かしている訳です。

 おまけに、三船の存在感たるや凄まじいもので、ばばんとスクリーンに出た瞬間に、二つの陣営が相対し、他の俳優がほぼ全員揃い踏みだと言うのに、存在感だけで圧倒する訳ですよ。

 こいつはただ者じゃねえ……! と居るだけで思う訳です。だから傍若無人に自分の値踏みを始めても、全然違和感が無い。

「この男は強いんですよ!」って描写をわざわざ入れる必要性が無いんですよ。だって見るからに強いから。

ところがねえ、このジャンゴではねえ、わざわざ強さを現す描写が出てくるんですよ。残念ながら。だって伊藤英明頼りないもん。

 で。比較しろと言わんばかりの構成なので伊藤と三船を比較しちゃう訳ですが、どうにも伊藤が頼りない。 ずーっと全編、どれだけキャラクタとして強くてかっこいいかを描写されても、何せ三船の影を追っているので、もう全然からっきし。ダメダメ。

 相手が悪いよ! って言ったって、そういう構成にした時点でそりゃ比べるじゃないのよ! 大体看板役者がこれだけ頼りない時点でダメです。

 内野聖陽とか持ってくればさ、一瞬で引き締まると思うよきっと。

 つーかねー、そういう視点で言えば全然ダメな点がいっぱいあって、木村佳乃とのベッドシーンで上半身裸なんですけど、木村佳乃の引き締まった肢体に比べて、伊藤のだらしなーい上半身を見るとね、もうどうにもがっかりしかしない訳です。

 何もハリウッドばりとまでは言わないけれど、もうちょっと何とかしようよ、ねえ。

 その点木村佳乃は素晴らしい。非常に演技力があると思います。

 すっごい難しい役で、ダンスとかを扇情的に踊るシーンがあるんですけど、まあ許せるレベルで肉体全部を使って、感情を込めて踊ってるんですよね。

 まあ専門家じゃないけれど、僕はアリだと思った。

 ドキッとしちゃう美人だしね。

 しかし、何よりがっかりなのは桃井かおり。

 僕ね、桃井さん凄い好きなんですよ。何が好きかってあの存在感ですよ。存在感。

 樹木希林も凄い存在感があると思うんですけど、桃井さんも負けじとおっそろしく存在感のある女優さんだと思ってるんですよ。

 で、存在感のある役なんです。実際。かっこいい。最高の役。

 でもねえ、悲しいかな前半のシーンと後半のシーン、どちらに桃井さんの存在感があるかというと、前半のシーンなんです。

 後半は凄く動く役にがらっと変わるんですけど、これもまたキャラクタと演じる俳優の間でとんでもなく乖離がある。要は動けてないんですよ。全然。致命的に。

 年齢の割に半端なくすっげええええええって役なのに、年相応からそこまで離れてない動きなんです。これはね、残念だけれどミスとしか言いようがない。

 ワイヤーアクションの一発でもかますくらいじゃないと、圧倒的な動きを表現できなかったんじゃないですかねえ。一人だけワイヤーアクション。一人だけマトリックスばり。まあ予算ですかね。

 何だかんだと書いては見たものの、これを見るくらいなら黒沢明の用心棒を見返した方が面白いと思えてしまう時点で、悲しいよね。練り込まれ方がやっぱり黒沢の方が遥かに上なので。見る度に発見があるんですよね。黒沢作品は。

 衣装は凄く良いと思いますよ。

 あと笑いがどうにも薄っぺらい。残念だけれどコメディリリーフなんて要らないと思いました。スラップスティックで笑いを表現するのは確かに素晴らしいと思うけれども、どうにも、ねえ。骨子が骨子だけに薄っぺらく感じてしまう。

 いやー、僕この作品好きなのに、どうしてこうも批判ばっかりなのかな。やっぱり僕が半端なく好きな用心棒をただなぞるだけって構成が気に入らんのだろうな。

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CLANNAD見た

10月 6th, 2007 by admin

 今乗りに乗っている京アニの最新作、CLANNADを見た。
 原作ゲームはやっちゃいないが。
 僕はどうにもkeyのゲームは合わなかった。というのも、キャラクタの造形が幼くて、だんだんイライラしてくるのと、作品テーマの方向性に疑問があったからである。
 というのも、基本的にはテーマとしては決まって、『奇跡』に頼る方向性で、奇跡は他力に頼った上で起きる物なので理由は必要ないとばっさり切っている。
 これは僕の勝手なエゴなのだが、奇跡とは起こるべくして起こる物だと思うのだ。
 それじゃあ奇跡じゃないじゃあないか、と言うかもしれないが、それなら富める者にさらに富を与える奇跡と、貧しき者に富を与える奇跡は等価であるはずだ。
 しかし、物語作品において前者のケースはまずあり得ない。カタルシスも無ければ教訓性も無いからだ。その時点で既に奇跡とは万人にとって等価ではない。既に何かを失った者、不公平な境遇に居る者だけが、奇跡を受ける権利を得ている。
 とは言え、その日暮らしを続け、酒に溺れた生活をしている人間が幾ら貧しかったとて、やはり物語作品においては奇跡は受けられない。
 結局、何かしらの努力、ないしはトリガーとなる行為をしなければ、奇跡は起きない。だから全ての奇跡は必然であるべきなのである。
 ところが、keyの作品はその決まり切った所作を省き、結果として奇跡が起きるだけである。別に何かしらの対価も、努力の証も、トリガーもある訳ではない。
 だから、本来起こりえない奇跡が何故か起こってしまっている。それに感動などどうして出来ようか。

 さて、本作だが、元の作品自体が18禁で無くなったのを受けてか、父親と母親が登場している。
 いわゆるエロゲーにおいて、親の存在は基本的に禁忌であり、特に父親に至っては娘と婚前交渉をするのが基本となる作品が多く、出すと話しが重くなるため基本的には出さない。
 母親は性的な対象になる場合があるため、出るのだが、基本的に主人公=プレイヤーを咎めない。
 という事は、この作品には父親と母親が出る必然性があるという事である。
 まあ家族愛とか言ってるし、きっと父親の過去があってどうのこうの、って構成なんじゃないのだろうか。
 キャラの造形も、相変わらず内気なリスカ少女が一人は居そうな構成となっていて、まあ順当じゃなかろうか。しかし、灰色の髪の女の子が格闘少女だったとは……。薄幸そうに窓辺で読書をして、サナトリウムが良く似合うタイプの女の子かと勝手に思っていた。いわゆる文系少女。キャラ造形からの類推は一切当てにならんなー。
 しかしギャグシーンは寒いなー。おそらく、字面だけだと面白いのだが、台詞にすると恐ろしくテンポが悪い。ベテランの声優が演じてあそこまで寒いってのは、ホンが悪いんだろうな。
 今まではKanonもAIRも原作をやって、力一杯否定してたので、今回は原作を知らない分まともに見れるのやもしれんなあ。まあ予想では安定はしない構成だろうな。だいたい、何人も女の子が居て攻略していくゲームを一本道にする構成は無理がある。

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